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第66話 朝まで一緒にいたかった⑬

 鳥居をくぐった先で、澄也は呆然と立ち尽くす。  夏野菜の実った畑はそのままなのに、土の上には見慣れない足跡がいくつもあった。木には得体の知れない焦げ跡がつき、数える気が失せる程度には多くの枝葉が落ちている。悪い夢を見ただけなのだと思いたくても、目の前の光景がそれを許してはくれなかった。 『スミヤ……』 「お腹が空いているだろう、ユキ。朝ごはん、あげられなくてごめんな。桃でも食べるか?」 『いい。スミヤがたべないなら、ユキもいらない』 「俺に付き合わなくていい」 『いや。ユキはスミヤといっしょにいる』 「そっか。ごめんな」 『ごめんもいらない』 「いらないばっかりじゃないか……」  笑おうとしたけれど、から笑いをする元気もなかった。  毎日通った小屋の前で、澄也はぴたりと足を止める。中を確かめなければと思うのに、足がすくんで動かなかった。顔を上げたユキが、澄也を気遣うように短い手を伸ばす。小さな手でかりかりと懸命に扉をかく姿に背を押されながら、澄也はようやく扉に手を掛けた。 「……ただいま」  声は虚しく小屋に響いた。いつものように呼びかけても、迎えてくれる声はない。  並んだ布団はそのままで、奥には澄也の制服がきっちり畳まれて置かれている。ろくに触らせてもらえなかった調理器具は見慣れた位置にきっちりと収まっているし、薬箱も布もいつも通り棚に置かれていた。  どこを見ても、昨日までの小屋そのものだ。  それなのに、そこにいるべきひとだけがいなかった。  地面に降り立ったユキと並び立ち、澄也は小屋中を見て回った。しばらくそうした後で、今度は外の敷地を隅から隅まで眺めて回った。  どれくらいそうしていたかも分からない。気づいたときには日が高く上っていて、体がひどく重くなっていた。ふと視線を落とした先で、ほとんどはだけた浴衣が目に入る。  ――寝相が悪いねえ。  何年も前に神社で目を覚ましたとき、笑い混じりにかけられた言葉をふと思い出す。こんなだらしのない格好をしていては、小言混じりに笑われてしまう。  澄也が着替え終わると、ユキは頭突きでもするように澄也の足元にびたりと寄り添い、寂しげな鳴き声をひとつもらした。 『しろいの、いなかったね』 「……」 『……ユキはスミヤといる。ずっとそばにいる。泣かないで』 「泣いてないよ。でも、ありがとうな」  優しい使い魔をひと撫でして鳥居を抜けようとしたそのとき、ばさりと大きな羽音が空に響いた。見上げれば、白く大きな烏が木に止まっている。 『おじじ』  威嚇するように、怖い顔をしたユキが澄也の前に出た。あんなに懐いていたのにどうして、と思ったけれど、威嚇にしては声が弱々しい。この使い魔は、澄也の気持ちを汲み取って動いてくれているだけなのだと、ほどなくして悟った。  思えば、この烏がきっかけだった。卒業試験の日、澄也の首の跡を水無川和尚が見ることさえなければ、彼らはきっと何も気づかなかった。今だって澄也たちは、何も変わらず幸せな毎日を過ごせていたかもしれない。  澄也の幸せが壊れたのは、この烏のせいではないのか。 (違う)  じわりと湧き上がった黒い気持ちを反射的に抑え込む。きっかけが何であれ、何かを間違えてしまったのは澄也であり、引き金を引いたのは澄也自身だ。自分が苦しいからと言って、他人を恨むべきではない。それは『正しく』ないことだ。  だけど、と澄也は自嘲した。今さら『正しく』生きる意味があるのだろうか。魂を清く保ちたかったのは、そうあれと望んでくれたひとがいたからだ。そのひとがいないなら、我慢する必要がどこにあるというのだろう。 『澄也。子狐。どこへ行く』  しわがれた声が木の上から降ってくる。十年以上もの間毎日顔を合わせてきた相手だ。澄也自身はこの烏と挨拶以外で言葉を交わしたことはなかったけれど、烏が澄也とユキを気にかけてくれていたことは知っていた。 「学校」  無視をしようかとも思ったけれど、迷った後で短く澄也は答えた。 『休み中ではないのか。何のために行くというのだ』 「魔物の情報は学校に集まる。だから、聞いてみるんだ。もしかしたら、いつもの気まぐれかもしれないだろう。まだ近くにいるかもしれない。誰かが何かを知っているかもしれない」  ぼそぼそと答える澄也を、白い烏は厳しい声で叱りつけた。 『そんなことはあり得ないと自分でも理解しておるだろう。見苦しい現実逃避はやめなさい。あの鬼はやると決めたら何でもやる。気分ひとつで行動こそ変えるが、無意味に言葉を弄ぶことはしない。お前は遊ばれ、捨てられた。分かっているからこそ、お前もあれをもう神とは呼ばないのではないのか』 「……それは……」 『澄也、お前は賢く真面目な子だ。あんな鬼のことなど忘れて、拾った命を穏やかに生きていきなさい。今のお前は不安定で、危険な状態だ。退魔師どもが来るまで、ここを動いてはならん』 「――うるさい、糞爺」  延々と続きそうな説教を遮るように、澄也はぼそりと今まで口にしたこともないような言葉を口にした。ぱかりと口を開けた烏を一瞥して、澄也はそのまま鳥居をくぐり抜けていく。 「今ならあのひとがそう呼んでいた理由が少しだけ分かる。あなたがあなたの勝手で水無川さんを呼んだように、俺が何をしようが俺の勝手だ。放っておいてくれ」  烏はそれ以上、何も言わなかった。  振り返らずに進む澄也と、思い詰めたようにその背を追うユキを見ながら、八咫烏は大きなため息をつく。 『いらん影響ばかり受けおって。まったく……』  大きく翼を広げた烏は、ぼやきながら空に舞い上がる。生まれたときから見守ってきた子どもが、己の心もろくに分からぬ馬鹿な糞鬼の餌食になるのは許せなかった。澄也と退魔師たちと接触させたことが間違いだったとは思わないが、あの思い詰めようからして、八咫烏の行動は最善ではなかったのだろう。 『貴様のせいだぞ、糞鬼め』  ただでさえ短い人間の生を無意味に消費させることの愚かさを、いつか己の心の内に気づいたとき、死ぬほど悔やめばいい。八つ当たりのように脳内の鬼をなじりつつ、八咫烏は風に乗って速度を上げる。  たとえ糞爺と呼ばれようと、何を仕出かすか分からぬ若人たちを放っておくのは八咫烏の趣味ではないのだ。

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