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第68話 朝まで一緒にいたかった⑮

 ぞっと背筋が凍りつく。ヘドロにも似た黒い粘液をまとった巨大な魔物は、立ちはだかる教師たちを薙ぎ倒して一直線に澄也に手を伸ばしていた。  咄嗟に手持ちの符を投げつけるけれど、符に込められた術が燃え上がるより前に、魔物は一口でそれを飲み込んでしまう。 『また アえたね』  汚らしい姿には、既視感があった。澄也が子どものころに殺されかけた、あの魔物だ。澄也が神様に出会うきっかけになった魔物そのものが、目の前にいた。 「消されたはずじゃ……」  言いかけて口を閉ざす。核がある限り、魔物に本当の意味での死の概念などあってないようなものだ。ここにいるということは、核のかけらがどこかに残っていたのだろう。 『オニ は もういない。ずっと まってた』  ――お前の神様はもうやめた。  いつも澄也を助けてくれた神様はもういない。幼い日の記憶と、昨夜告げられた言葉がぐるぐると脳裏をめぐる。伸ばされる黒い手を、澄也は動くこともできずに見つめていた。  けれど魔物が澄也に触れる寸前で、誰かが澄也を庇うように突き飛ばす。 「逃げなさい!」  額から血を流した教師が澄也を怒鳴りつけた。  時間がいやにゆっくりと感じられた。周りを見ても逃げ場はない。空にはけたけたと笑う怪鳥が集まり、窓からは異様な興奮状態に陥った小さな獣の魔物たちが次々と飛び込んでくる。符を投げても投げても魔物たちの数は減らず、中には傷つき血を流している人さえいる。校内は完全に混乱状態に陥っていた。 「何でこんなことが起きるんだ! おかしいだろう!」 『たのしい! にぎやか!』 「怪我人がいます! 誰か手を貸してください」 『いいにおい。たべる』 「退魔師はまだ来ないの?」 『どれ? おいしいにおい』 『あれだよ、あのくろいの』  人の悲鳴と人ではないものの笑い声が混じり合う。人の血が飛び散り、魔物は核に変わっていく。地獄のような光景だった。 「……俺のせいか」  けらけらと笑う魔物たちの声を聞けば、己を狙って魔物たちが集まったのだと嫌でも分かる。烏の忠告を聞いておくべきだったと後悔してももう遅い。 「本当だな。俺は昨日、死んでおくべきだった」  母の言葉を思い出し、ぽつりと澄也は呟いた。  価値のない己の命を守る理由は、昨日神様に食べてもらえなかった時点で消え失せた。周囲に不幸を振りまくだけなら、死ぬべきだ。おあつらえ向きに、目の前にいるのは遠い日と同じ、澄也を欲しがる魔物だ。知能は高くないようだから、腹さえ満たせば退くかもしれない。最後くらい他人の役に立って死ぬならそれもいいだろう。  そう思って前に出ようとした瞬間、悲鳴のような鳴き声が足元から聞こえてきた。 『スミヤ! だめだよ。だいじょうぶ、ユキがいる。スミヤをまもる』    澄也の足元で、ユキは懸命に魔物たちに牙を向けていた。青白い狐火で敵を焼き、片っ端から噛み付いては食いちぎっていく。真っ白な毛皮が爪で抉られても、ユキは一歩も引かなかった。 「もういい、ユキ」 『よくない!』 「逃げてくれ。ユキならきっと、窓から逃げられる」 『にげない!』 「言うことを聞いてくれ。頼む。もういいんだ。俺がいなくなればきっと少しはましになる。もう守るな」  淡々と告げる澄也の声に被せるように、ユキは威嚇の叫びをあげた。全身の毛を逆立てた小さな使い魔は、泣きそうな顔で主人を睨みつけた。 『なにもよくない! ユキは、ユキは……!』  ユキはぶんぶんと強く首を横に振る。 『ユキがもっとつよければ、白いやつをつかまえてあげられた! ユキが大きかったら、どこにだってスミヤをつれていってあげられた。ユキの口がもっと大きかったら、ぜんぶぜんぶ、たべてあげられた! スミヤにそんなかなしいこと、言わせずにすんだ!』  悲鳴を上げるようにユキは吠える。己の力不足を、使い魔は誰より悔やんでいた。 『ユキは、スミヤを傷つけるやつをゆるさない!』  牙をむき出しにしたユキが咆哮する。ぎちぎちと無理矢理何かを押し拡げるような音がして、部屋を埋め尽くすほど巨大な影が広がった。小柄な狐の甲高い叫びは、しだいに猛獣の唸り声にも似た低く迫力のあるものに変わっていく。  部屋にいるどんな生き物よりも大きな体に変化した白い狐は、魔物と人を視界に捉えて口いっぱいの炎を打ち出した。 『きえろ! みんないなくなれ』 「ユキ、やめろ」 『やめない。敵は消す。みんなたべる。そうすればスミヤはしなない』 「死なないから! だからここまでしなくてもいいんだ、ユキ!」  青い炎は生き物だけを焼いていく。しかし、巨大な炎が焼いているのは魔物だけではなかった。周囲の人間まで巻き込みかけている。澄也は必死にユキを止めようとしたけれど、すっかり我を失っている様子の使い魔は、言うことを聞いてはくれなかった。 「ユキ、もういいんだ!」 『だいじょうぶ。ユキはスミヤをまもる』 「俺は大丈夫でも、周りの人が大丈夫じゃないんだよ」 『みんなきえればだいじょうぶ。こわくない。しななくていい』  甘えるように鼻先を澄也に擦り付けたかと思えば、ユキはたった今し方四本に増えたばかりの尾でふわりと澄也を包みこんだ。そうしてがらりと表情を変えたユキは、黒く大きな魔物を頭から容赦なく食いちぎる。床に音を立てて落ちた核を、ユキは即座に牙で噛みつぶした。  群れのリーダー格であった黒い魔物が消えると、物見遊山に出かけてきたのだろう小さな魔物たちは我に返った様子で次々と逃げ出し始めた。 「き、君……その魔物は、なんだ」  逃げ出す魔物に視線を向けたそのとき、愕然とした声がごく近くから聞こえてきた。振り向けば、先ほど澄也を庇ってくれた教師が化け物でも見るような目を澄也に向けていた。

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