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第70話 朝まで一緒にいたかった⑰
隣町の寺は、住宅街から離れた場所にひっそりと建っていた。参道の脇には苔むした岩と木々が立ち並び、少し外れた場所には小さな池と、丁寧に手入れされているのだろうつつましやかな庭園が広がっている。大きなしだれ桜の木と鐘楼を通り過ぎると、歴史を感じさせる本堂が見えてきた。
「ここは水無川さんのお寺なんですか」
畳の部屋に案内された後で、出された茶に視線を落としながら澄也は問いかけた。弱っていたユキには、血を与えた後で影の中で眠ってもらっている。寺の敷地に入るなり青嵐はふらりと姿を消してしまったため、今この場にいるのは水無川和尚と澄也のふたりだけだった。
湯気を立てる湯呑を両手で持ち上げながら、水無川和尚は小さく首を横に振った。
「今年から住職として管理をさせてもらってはいるけれど、私の寺というわけではないよ。私は元々外の人間だからね。ここは妻の家系が代々引き継いできた場所なんだ」
その言葉に少しだけ澄也は驚いた。この地方には魔物が見える人間が多く集まるけれど、そのほとんどが地元の人間だ。仕事で派遣されてくる退魔師は別として、寺や神社のような地方に根付いた場所の管理者は、皆この辺りの出身の人だとばかり思っていた。
澄也の疑問を読み取ったかのように、水無川和尚は穏やかに続ける。
「もともと私は修行も兼ねて全国を回っていたんだ。見識も広まるし、困っている人たちはどこにでもいるから、ひと所に留まるよりも各地を転々とする方が性に合っていた。妻とはその過程で出会ったんだよ。……まあもっとも行脚といっても、この十数年はあの白鬼にもって行かれたようなものだけれど」
「白鬼……」
「君が親しくしていた、あの見てくれだけは美しい人外の青年のことだ」
吐き捨てるような言いぐさに、ぴり、と胸の奥がささくれ立つ気がした。
「我々はあの鬼を追い続けてきた。原因の見つからない事件を追っているうちにそうなったというほうが正しいかな。狡猾に重ねられた被害の裏には、いつもあの鬼が背後にいた。心が壊れてしまった者もいれば、過去には行方が分からなくなった人も多くいる。ただあの鬼は鼻が効くから、交戦するまで近づけたのは二度きりだけどね」
「十一年前と、昨日」
ぽつりと呟けば、水無川和尚はわずかに目を見開いた。記憶を辿りながら、澄也は言葉を付け加える。
「初めて会ったとき、あのひとは札でぐるぐる巻きにされていました。だからそうかと思って」
「……そうか。君はそんなにも前から、あの鬼と親交があったのか……。君の言う通り、十一年前、我々は白鬼と交戦した。あの鬼を殺すことはできず、せめて一箇所に縛り付けようとしたけれど、力及ばなかった。どこに逃げたのかも分からなかった」
悔やむように水無川和尚は目を伏せた。
「鬼というのはとにかく厄介でね。追うのも仕留めるのも難しい。君も知っているかもしれないけれど、身体能力は優れているし、おかしな異能をいくつも使う。知能だって人間とほとんど変わらない」
「……。俺にとっては神様のようなひとでした。強くて優しい」
「そして、気まぐれで冷酷なヒトならざるものだ」
冷たく決めつけるような言い方に、考える間もなく澄也は反論していた。
「違います。たしかに気まぐれなひとだったけど、魔物と違って誰かを襲うことも傷つけることもしなかった」
「本当に? 君は様子のおかしくなった人を、この十年以上誰ひとりとして見なかったというのか? 夢を見続けているかのように正気を失った者はいなかったか。ろくに動くこともできなくなった者は?」
「それは……」
いないと言えば嘘になる。言葉を呑み込んだ澄也を見つめながら、水無川和尚は淡々と続けた。
「人外は人外だ。鬼に倫理観なんてものはない。快楽のために人を殺し、弄び、凌辱する。肉を食べ、血をすすり、精気を吸って魂をかみ砕き、自分の命に変える。君の前では見せていなかったとしても、あれはそういう生き物だ。古い時代に遡れば残虐な記録など数知れない。病を振り撒き都を混乱させただの、戦の火種となった傾国の美女の正体を探ってみれば鬼だっただの、村人を虐殺したあげく屍で山を築いただの、逸話には事欠かないだろう」
「それがあのひと――白鬼、だとは限らないじゃないですか……!」
言い慣れない呼称に舌がもたつく。痛ましそうに表情を歪めながら、水無川和尚は「すべてがすべて白鬼の仕業だとは言わないよ」とゆるく首を振った。
「それでもそのうちのいくつかは確実に白鬼による被害で、ここ十数年に渡る被害者はたしかに存在する。君自身、それだけの長い時間をともにした挙句に裏切られた被害者だ。違うかい」
「俺は裏切られてなんて――!」
先ほどまで感じていた疲労をかき消すように、ぐちゃぐちゃな感情が湧き上がる。澄也の言葉が終わるよりも前に、前置きもなく扉がスパンと音を立てて開かれた。
「おうおう、俺ら抜きで始めるなんてひどいじゃねえか」
襖の向こう側には、どこか面白がるような顔をした青嵐と、むっすりと黙り込んだ健が並んで立っていた。
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