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第72話 朝まで一緒にいたかった⑲

 気付いたときには、周りに誰もいなくなっていた。動く気力もないまま、健と隣り合うようにして澄也は床に転がっていた。ぜえぜえと全力で走った後のような荒い呼吸だけが聞こえてくる。 「……クソスミヤ。知ってるぞ。お前家にいろって言われたのに無視して学校行って、水無川さんたちに迎えに来てもらったんだって? くっそ迷惑だな」 「俺だってこんなつもりじゃなかった」 「振られてしょぼくれて自殺行為かよ。ヘタレ野郎」 「うるさい。じゃあお前の神様はやめるって言われてなんて返せばよかったっていうんだ。迷惑なやり方しかできない健と一緒にするな」  舌打ちが聞こえたかと思えば、素早く動いた健が澄也に覆い被さっていた。押しつけられるように重ねられた唇に、澄也は顔をしかめて健の体を押し返す。 「やめろ。気色悪い」 「はっ! 良い子ちゃんのふりはやめたのかよ」  泣き笑いのような表情を浮かべて、涙声で健は言った。半ばやけになりながら、澄也は吐き捨てる。 「白神様に捨てられた。もう正しく生きる意味もない」 「じゃあみっともなく生きてみろ。頼めばみんな聞いてくれると思ってるおめでたい頭は捨てるんだな。バカスミヤみたいに、聞かせようとしなきゃ話も聞かねえやつだっているんだよ」 「健みたいに腹の立つやり方しかできない馬鹿がいるって?」 「ああそうだよ。それでも俺はやったぞ。馬鹿だろうがなんだろうが、ようやくお前、俺を見た。話を聞いただろうが。何にもしねえでいじけてるお前と一緒にすんな」  威勢よく言い切ると、すっかり疲れ切った様子で健は床に転がった。池から聞こえてくるのだろう水音に耳を傾けながら、ぽつりと澄也は口を開く。 「健の気持ちには応えられない」 「うぜえ。いちいち言うんじゃねえ」 「それから、ごめん。全部八つ当たりだ」 「謝るな。俺はお前をいじめてきた。ガキっぽいやり方で気を引こうとした。でも昔のことも、昨日水無川さんたちに勝手に頼んだことだって、謝る気はない。謝って許されるとも思ってねえ。殴って気が済むなら好きなだけ殴れよ」 「もう十分殴った。健は小さいし、これ以上は弱いものいじめになる」 「ああ? 誰がチビだこの野郎」  多分傷になっているだろう拳も痛いし、身を起こす気力もない。息がようやく整ってきたころ、怒鳴りすぎて掠れた声で、澄也は弱々しく尋ねた。 「俺は何を間違えた? どうすればよかった?」 「……。神様がいなきゃ生きられねえようなヘタレだから捨てられるんだろうがよ。あの怖い化け物の方がよっぽど用意周到だったぞ」  どういう意味だと隣に転がった健に視線で問えば、涙で赤くなった目を歪めて、不貞腐れたように健は答える。 「『かわいそうにね』ってあの白い化け物は俺に言った」 「白神様――白鬼に、会ったことがあったのか」 「ガキのころにな。お前をつけて神社に行って、出くわした。『坊やは澄也と同じ世界を生きられない。だから友だちにもなれない。悔しいだろう』って、馬鹿みたいに綺麗な面で言うんだ」  初めて聞く話だった。苦々しい顔で健は続ける。 「『澄也は私のものだけれど、学校までは手が届かない。ひとりになれば、仕方がないからお前で妥協してくれるかもしれないねえ』って。そう言われて、そのときは馬鹿じゃねえのって思ったのに、気がついたときにはお前をいじめるようになってた。絡んでるときだけはお前、俺を見たから」  白鬼は、澄也を自分のものだと思ってくれていた。ほんの少しの喜びを感じた後で、けれど結局はこうして白鬼は澄也を置いていったという事実を思い出して再度気分が落ち込んだ。  ひとりで気分を乱降下させる澄也の内心には気付かず、健は落ち込んだように声を低める。 「魔が差した、なんて言い訳にもなりやしねえけど……」 「魔物に憑かれた覚えはあるか」 「はあ? なんだいきなり。人に取り憑く魔物? そんなもんいるわけねえだろ。魔ってそっちの魔じゃねえよ」 「聞き方が悪かった。白鬼に触られたか」  少し考えた後で、健は小さく頷いた。 「頭を撫でられたな。あの時は首をちぎられて殺されるのかと思った」  澄也は乾いた笑いを抑えることができなかった。健の話は、悪意を煽る魔物について話を聞いたとき、澄也が抱いた疑いを補強するものだったからだ。澄也がユキを使い魔として使うように、白鬼もきっと、魔物を従えることができるのだろう。狙った人間に特定の魔物を憑かせることくらい、鼻歌交じりにやってのけるのだろうと容易に想像できた。 「は、はは……たしかに『用意周到』だ」  別にひとりぼっちでなくとも白鬼は澄也にとって特別な存在になっただろうが、家でも学校でも孤立していたおかげで、澄也は白鬼に心底のめり込むことになった。依存に近い想いを抱いている自覚はある。 「あいつ、ガキに牽制したんだよ。大人気ねえったらありゃしねえ。鼻が利くっていうのはそれだけ注意深いってことなのかもしれねえな」  とんちんかんな健の言葉に澄也は苦く笑う。けれど健は気にする様子もなく、ごく真剣な表情で澄也に問いかけた。 「お前、これからどうすんの。命拾いした命をまた捨てに行く気か」 「別に捨てるつもりはない。でも、あのひとがいないと生きていける気がしない」 「じゃあどうする気だよ」 「捕まえる。使い魔にする」 「は?」 「悪い鬼で、封印するつもりだったならそれでもいいはずだ。物に封じるか人に封じるかだけの違いだろう」  力を増したユキは命令を聞かなかった。完全に制御下に置けないかぎり使い魔と封印が同等という理屈は通らないけれど、澄也自身が強くなればいいだけの話だ。 「鬼だぞ」 「鬼だろうがなんだろうが関係ない。捕まえて、俺の何が悪かったのか理由を聞く。……みっともなくても、このままじゃ納得できない」 「そうかよ。馬鹿だな」 「馬鹿で結構だ」  横たわったまま澄也と健は睨み合った。体はぼろぼろで、顔はぐちゃぐちゃ。目の前にいる相手は顔を合わせて楽しい相手でもない。それでも、ここに来る前と比べると、荒れた気分は暴れたことで解消されたし、感情のままに怒鳴ったせいで不思議と気持ちがすっきりとしていた。  澄也の目をじっと見た後で、健は体を起こし、震える手でそっと澄也の手を取った。何をする気かと思えば、すでに傷の塞がりかけた指の節をじっと見て、くしゃりと顔を歪めている。 「今度こそ死ぬかもしれねえぞ。ただでさえこんなわけのわからない体にされてるくせに」 「便利でいいだろ」 「ふん!」  澄也の手をぽいと床に放った後で、なぜか健は愕然とした顔で固まった。視線は、ちょうど澄也の真後ろにある出入り口に固定されている。痛む体で寝返りを打つと、空いた襖から足が見えていた。  顔を上げる。そこには、三人分の生暖かい視線があった。 「あはは……。澄也が和尚さんたちに連れて行かれるところ、教室から見てたからさ。心配で追いかけてきて、お寺に入れてもらったんだけど……ごめんね、立ち聞きしちゃって。声、かけづらくて……」  いかにも気まずそうに作り笑いを浮かべている制服姿のひまり。 「いいねえ。若いやつらの喧嘩っつうのはこうじゃねえとな。まあ、どんまい坊主。いいことあるさ」  顎をさすってにやついている青嵐。 「とりあえず傷の手当てをしようか、ふたりとも」  薬箱を手に持った水無川和尚。  いつからいたのか気づかなかったな、とぼんやり見返す澄也とは対照的に、健はぶるぶると真っ赤な顔で終始震えていた。  澄也が寺に住み込みの門弟として世話になることが決まったのは、幼なじみと大喧嘩をして和解した、その日のうちのことだった。

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