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閑話 傍観者の一日②
「何か問題があるか? 人目にはつかないところでしている。寺の敷地外で血を流した方が、面倒なことになる」
「まあいいけどよ。自傷行為もほどほどにしろよ」
「自傷のつもりはない。どうせすぐに治る。俺にはユキの力が必要で、血がユキの力になるから与えている」
淡々とした声の中にわずかな苛立ちを感じとって、青嵐は面白がるように片眉を上げた。
「なんだなんだ。焦ってんなあ。ご機嫌ななめか、澄也くん。いやに長くかかったみてえだけど、そんなに手こずる仕事だったか? それとも面白い手がかりでも見つけたのか」
「……何も。あったといえばあったし、なかったと言えばなかったよ。いつも通りだ」
はぐらかすときの物言いが知り合いの性悪によく似ていて、青嵐は吹き出しそうになった。十年以上白鬼のそばにいただけあって、澄也と白鬼は、おかしなところでよく似ている。
もう少し話を聞きたかったけれど、澄也はどうやら本当に機嫌が悪いらしい。視線を逸らすや否や、会話は終わりだとばかりに歩き出す。
「水無川先生は?」
「奥にいる。あいつ寒がりだから、こんな日は出てこねえよ」
「報告してくる。少し休むから、用事があれば声を掛けてくれ」
「へいへい」
ひらひらと手を振って、生真面目な青年の背を見送る。そんな青嵐を、二対の視線がじいっと不思議そうに見つめていた。
『せ、せい……ラ?』
『ちがうよ、しぃ、らぁん』
ぴいぴいと赤子のような声で子狐たちが鳴いていた。かわいらしい様子に相好を崩す間もなく、青嵐の目の前で、唸り声とともに大きな前脚が二匹の子狐の上に容赦なく振り下ろされる。
『おばか! なまえをよぶんじゃない』
白狐に押されつけられた子狐たちは、きゅううと怯えたような声を漏らす。
『しろいの、ごめんなさい。おこらないで』
『なんでだめ? スミヤ、いいって言った』
しゅるしゅると姿を縮め、中型犬程度の大きさになった白狐は、ふんと尊大に鼻を鳴らした。
『スミヤはいい。ニンゲンもいい。マモノはだめ。なまえはとくべつ。おまえたちはユキとおなじなんだから、つがいか主以外によばせるな。よんでもだめだ。次やったらしっぽをぬくからな! えりまきにしてやる』
躾というには荒々しいそれは、白狐自身が受けた教育をそのまま施しているのだろうか。ぶるぶると震える子狐たちに苦笑しながら、青嵐は白狐に手を伸ばす。
「いい、いい。気にするな」
『よくない! こいつらはおばか。これくらいでちょうどいい』
「この小さいやつらはお前の子分なのか、ちび」
『おちてたからスミヤがひろった。きたえてつかう。ユキはちびじゃないけど、手が足りない。しろいのは早いから』
『しろいの? しろいの、ここにいる。おいかけっこするの?』
横から口を出した黒い子狐は、白狐に耳を噛まれて黙り込んだ。上位者の話に口を出してはいけないのだと言い聞かせている様子が微笑ましい。
「なんだ、やっぱり何かあったのか」
『しろいののにおいがした。スミヤは見たって言った。追いかけたけど、見つからなかった』
白鬼の行方の手掛かりを見つけたらしいが、逃げられたということなのだろう。それらしい依頼があれば昼夜問わずに足を伸ばすこの主従は、かれこれ五年以上ひとりの鬼を求めて追いかけているのだから、ご苦労なことである。
ぐう、と間抜けな音が響く。白狐の腹の音だった。
『しろいののにおい、思い出したらおなかがすいた』
「もう少し待ちゃあ昼メシだ」
『おハゲのうちのごはんはまずい。ユキはおにくがたべたい』
「肉は出ないぞ。寺だからな」
『おにく……しろいのをつかまえたら、ユキの子分にする。スミヤを泣かせたしろいのは大嫌いだけど、あいつのごはんはうまかった……。あいつは早いけど、いっきに飛びかかればきっとにげられない』
「そう思うか?」
実直で融通が利かない主人に負けず、この白狐も大概素直で単純だ。首輪までかけられた他の鬼の獲物に深入りする気はないけれど、その使い魔相手なら多少の助言は許されるだろう。ああまで平気で自傷するようになっているとなると、澄也の精神状態もいい加減心配だ。何より水無川が知れば悲しむ。
「猛獣を狩るのに素手で挑む人間はただの馬鹿だ。水無川はそう教えたな?」
『うん。だからユキはスミヤの爪と牙になる』
「間違っちゃいねえけど、獲物を狩るためには、まず見つけなけりゃあ話にならねえ。目が必要だ。鼻でもいいし耳でもいい。そしてその役目でいうなら、お前よりずっと適任がいる」
『むずかしい』
小首を傾げてうんうんと唸る白狐を導くように、青嵐は空を指差した。
「八咫烏を引き込め。あんなんでも神の一角だ。道案内に関して言えば、あの爺さん以上のやつはいない」
『おじじにたのむの?』
「脅せ。お前のお節介のせいで澄也は傷ついて今も悩んでじめじめしてる、償うべきだってな。一度くらいは手を貸してくれるだろうさ」
時折寺に様子を見に来ている様子を見かけるから、白狐が泣きつけば少しくらいは絆されるだろう。そう唆せば、白狐はぱあっと顔を輝かせ、子分たちを率いて跳び上がるように庭へと駆けて行った。
ころころと変わる白狐の表情は見ていて面白い。すっかりやさぐれてかわいげのなくなったその主人も、手掛かりひとつで目の色を変え、及ばぬ力を全力で磨く様は微笑ましい。はたから見ていてもそうなのだから、そう仕向けた当事者は楽しくてたまらないだろう。どこへ逃げても追いかけてくるなど、後追いをする子どものようでいかにも愛らしいではないか。
青嵐は人間が好きだ。水無川とともに仕事をして、人間の真似事をする日々を気に入っている。人間が好きなあまり、肉も魂も口にできなくなって久しい彼は、それでもたしかに鬼だった。くつくつと喉を鳴らして、ぼそりと青嵐はひとりごちる。
「さぞ楽しいだろうなあ、白鬼よ」
その場に残った血の匂いに混じって漂う、甘い香りが鼻をつく。水無川が気に病むからこそ子どものときは引き剥がしたが、他の鬼の獲物にも、楽しみ方にも手を出す気はない。桃の香りに似た残り香を払うように手を振り、青嵐は雪かきに戻るのだった。
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