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第74話 手の鳴る方へ②

「おにさんこちら、手のなるほうへ」  舌足らずな声が聞こえる。どこから聞こえるのかと思えば、その高い声は自分の口から飛び出していた。  何をしていたんだったかと考えて、鬼ごっこをしていたのだと思い出す。学校でみんながやっていた遊びが楽しそうに見えたから、白神様にも教えてあげたいと思ったのだ。  走りながら振り返れば、苦笑しながら澄也を追いかけてくる白神様の姿が見えた。ひどく嬉しくなって、澄也は後ろを向いたまま走る速度を上げる。 「坊、そんなに走ると……ああほら見たことか」  縁石につまずいたと気づいたときには、額と膝がじんじんと痛んでいた。痛みなんてどうでもいいと思うのに、なぜか耐えがたくてぶわりと目に涙が湧き上がる。泣きたくないのに涙が止まらず、焦った澄也はごしごしと目を擦った。 「擦るんじゃない」  腕を剥がされたかと思えば、呆れた顔の白神様が目の前でしゃがみ込んでいた。引き寄せられるように腕の中に飛び込めば、当たり前のように白神様は澄也を受け止め、抱えてくれる。 「痛い。白神様」 「頭から突っ込めばそれは痛いだろうさ。坊はどんくさいねえ。ほら、小屋に戻るよ。手当てをしよう」 「嫌だ。やっぱり痛くない。白神様と遊ぶ」  平気だと言い張れば、白神様は苦笑しながら澄也の頬を小突き、澄也の涙を拭っていった。 「痛い痛いと泣いてるくせに」 「痛くない」 「……お前は本当に馬鹿だね。痛いことは、怖がるくらいでちょうどいいんだよ」  白神様の声音には、本気の呆れが滲んでいた。不意に不安になって抱きつく力を強めれば、白神様はぐしゃぐしゃと宥めるように澄也の頭を撫でてくれる。 「何をそんなにはしゃいでいたんだい」 「白神様と隠れ鬼がしたかった。みんな楽しそうにしてたから、きっと白神様も楽しいと思って」 「隠れ鬼? 何かと勘違いしてる? 隠れるなら『鬼さんこちら』って呼んだら意味がないだろう」 「あれ? 本当だ」  困って眉尻を下げれば、白神様はけらけらと笑って澄也を抱き寄せた。 「澄也。お前、頑固なくせに記憶力は良くないの、何とかならないのかい」 「俺はちゃんと覚えてる! ちょっと間違えた……だけ、で……」  言い返す声が、尻すぼみに縮んでいく。  違うと気づいてしまったからだ。 「澄也?」  不思議そうにこちらを覗き込んでくる幻を、澄也は両手で突き放す。子どものころ、どれだけ願っても白神様は澄也の名前を呼んではくれなかった。 「ああ、夢か」  ぽつりと澄也が呟いた瞬間、周りの景色は一気に色褪せた。砂の城が壊れるようにあっけなく、空間そのものが真っ白に変わっていく。  驚きはしなかった。この六年、澄也は似たような夢を何度も見てきたからだ。それは大抵、幸せだったころの記憶をそのまま再生したかのような優しい夢だ。夢だと気づかなければ不思議なくらい疲れが取れるけれど、気づいてしまえば目覚めることも眠ることもできない。それだけに、たちの悪いものだった。 「こんな夢、見たくもないのに」  見下ろした手はもう小さくも柔らかくもない。呟く声は低く、澄也は見慣れた大人の姿に変わっていた。 「かわいげがないねえ。どうしてだい?」 「夢と分かっている夢なんて虚しいだけだ。……消えてくれ」 「夢だと思うのなら、したいことを好きにすればいい。何を我慢することがある?」  しなやかな両腕が、するりと後ろから回される。体温など感じない。吐息も香りも感じない。所詮は夢でしかないのに、いかにもあのひとが言いそうなことを言うのだから、己の妄想にも大概嫌気がさすというものだ。 「離せ。消えろ」  短く吐き捨てれば、何が楽しいのか後ろの幻はくつくつと喉を鳴らして笑った。 「どうしてお前はそう禁欲的なんだか。ヒトの夢というのは大概、欲に素直になるものなのに。……いや、素直と言えば素直か。お前、そういう顔を私に見せたことはないものねえ」 「うるさい」 「聞きたいくせに」  甘い声に惹かれて振り向けば、不思議な輝きを宿した金色の瞳と目が合った。すべらかな手が澄也の頬を撫でていく。にいと唇を歪めて、白鬼はすべて知っているとでも言うように誘いの言葉を口にする。 「声を聞きたいだろう。肌に触れたいだろう。気持ちのいいことを、したくない? 疲れているのだろう?」  甘い毒のようなその言葉を、澄也は鼻で笑った。本当によくできた夢だ。己の浅ましい願望を突きつけられているかのようで、腹が立つ。 「消えろ。こんなくだらない夢であのひとを汚したくない」 「あはは! 汚すと来たか。お前はどうしてそう変なところで頭が固いんだろうね」  腕を引かれたと思ったときには、地面に引き倒されていた。澄也の上に馬乗りになった白鬼は、にやにやと笑いながら問いかける。 「どうして夢だと思うんだい。お前、私が神社から出られなかったと知っていたなら、人間を呼び出す方法があったとは思わないのか」 「知るか。消えろ。そんな都合の良いことあるはずがない」 「はは、生意気になったものだ。何度も言っているのに、起きればすぐにお前は忘れてしまう。すっかり拗ねてしまって、困った子だねえ」  完全にこちらを面白がっている顔は記憶の中の白鬼そのもので、自分の夢ながらよくできていると思った。優しげな口振りとは裏腹に、力には容赦がないところまでそのままだ。 「けれど答えにはなっていないね。私はどうしてと聞いているんだよ。答えろ、澄也」  目を逸らすことは許さないとばかりに澄也の顎を掴んで固定して、白鬼は軽く首を傾げる。ぞくりと背筋を走る感覚があった。手を伸ばしてはいけないと分かっているのに、その手を掴まずにはいられない。

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