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第75話 手の鳴る方へ③
己の顎を掴む手に手を重ね、目を逸らしながら淡々と澄也は答えた。
「痛みがない。温度もない。俺に都合のいいことしか起こらない。夢でなければなんだっていうんだ。あなたに触れる夢なんて何度も見た。その全部が夢だった」
苛立ちを込めて言い捨てれば、吹き出すように白鬼は笑い出した。
「そうだねえ、何度も見たろう。なら今さら、何を我慢することがある?」
舌打ちをした澄也は、上に乗った体に手をかけると、力任せに上下を入れ替えた。ほら見ろ、と自嘲する。白鬼が澄也に力負けするはずがない。澄也が好き勝手できる時点で夢でしかないのだ。
笑い声を吐き続ける唇を唇で無理矢理塞ぐ。頭の下に手を入れて、深く唇を合わせれば、それでいいとばかりに首に手が回ってきた。
このひとが好きなやり方はよく知っていた。首輪を刻まれていたときに、数えきれないほど繰り返したことだ。笑い声が止めば、しだいに鼻から抜けるような声がかすかに聞こえ始める。
「澄也、お前、どうしてそんなに拗ねているんだい」
頭がぼんやりとするまで唇を貪ったあとで唇を離せば、艶やかに掠れた声で白鬼はそうこぼした。
「こんな夢に見るくらい、鬼ごっこだのかくれんぼだの、こういう遊びが好きだったくせに。昔はどうしてこんなくだらない遊びをしたがるものかと不思議だったけれど、今は楽しさが分かったよ。それなのにどうしてそんなにつまらない顔をする? お前は楽しくないのか?」
「いつの話をしてるんだよ……。楽しいわけがないじゃないか。それらしい話を聞いて行っても、捕まえてみればまたあなたじゃなかったといつもがっかりする。気配を感じたって姿さえ見つけられない」
そう澄也が言えば、白鬼はきょとんと目を見開いた後で軽快に指を鳴らした。
「ああなるほど。自分がずっと鬼だからつまらないのか。お前、そういえば子どものころもそうやって拗ねていたね」
澄也の気も知らない軽い口振りに、苛立ちが増していく。
「俺の夢なら優しくしてくれよ。このままずっと、死ぬまで会えないのかもしれないのに」
「分かった分かった。ハンデをあげよう。お前が私を見つけるまで、今度は場所を変えないよ。あとはそうだね……逃げるときも、私は地面から足を離さない。これでどう?」
「あなたは……!」
こんなことを幻に言っても仕方ないのに、一度口から出た言葉は止まらない。一度決壊した怒りは、そのまま押し込めてきた言葉まで一緒に引きずり出した。
「嘘つき」
白神様が眉を寄せる。
情けない恨みごとなど言いたくなかった。けれどどうせ夢だと思えば、別にいいかと思い直した。言ったところで澄也以外には聞こえやしない。こんなものはただの独り言で、虚しい妄想で自分を慰めるのと同じなのだから。
「どうして俺との約束を破った。魂が汚れるまで一緒にいてくれるって言ったのに」
「んん? 私は破っていないよ」
意地悪く唇の端をつり上げた白鬼は、澄也の胸元に手を伸ばす。寝巻きがわりに着ていた浴衣の隙間から、当然のように手が忍び込んできた。
ひとしきり肌を撫でた後で、白鬼はそっと首を上げ、澄也の胸元に顔を寄せた。心臓に耳を寄せるような体勢に、わけもなく鼓動が跳ねる。けれど次の瞬間、告げられた言葉に心臓が止まるような気分になった。
「そうだろう? だってお前の魂はあの日を境に汚れていった」
「……っ、それは、あなたが俺を置いて行ったから……!」
「ひとのせいにするなんて、悪い子だねえ」
聞きたくない。けれど、起き上がろうにも意地悪な白鬼は澄也を逃がしてはくれなかった。
「それに、責められるいわれはないね。先に約束を破ろうとしたのはお前だ、澄也」
「え?」
どういう意味だと尋ねる間もなく唇が重なった。甘く優しい口付けに、頭が馬鹿になってくる。服の合間から手が忍び込み、つられるように澄也もまた、己の下に敷いた体に手を伸ばす。
慣れた快楽と、戯れのような触れ合いに気を取られかけたそのとき、遠くから澄也を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「邪魔が入ったな」
舌打ちをひとつして、白鬼はため息をついた。ふわりと体が浮き上がる。手を伸ばすけれど、白鬼には届かない。気だるげに髪をかき上げて、白鬼は夢が消える最後まで澄也を見つめていた。
「手の鳴る方へ、だったかい? 早くここまでおいで、澄也。いい加減待ちくたびれた」
その言葉を最後に、澄也の意識は急速に浮上した。
朝日の眩しさに目を細める。頬に触れた感触にくすぐったさを感じる間もなく、飛び込むような勢いでユキが顔の上に乗ってきた。
「……おはよう、ユキ……」
『スミヤ、大丈夫? うんうん言ってた』
ふかふかの腹を顔から剥がしながら、澄也は黙って苦笑した。
『もういっかいねる? さみしい? ユキ、枕になってあげようか。おちびたちもよぶ?』
「いい、大丈夫。おかしな夢を見ただけだ」
頭は重かったけれど、不思議と体は軽くなっていた。使い魔たちと添い寝するのも悪くないけれど、今日は朝のうちにひまりの家に来るようにと言われている。怠惰に二度寝をする時間はないだろう。
身を起こした瞬間、懐かしい桃の香りがした気がして、澄也はきょろきょろと辺りを見渡した。
『スミヤ、どうしたの?』
「桃の香りがしないか」
『あおいのが、今日のおやつは桃だって言ってた』
友だちに会うならお土産に持ってけって、とユキが見せてくれた襖の外には、朝露に濡れた白桃がいくつか置かれていた。
夢は夢だ。艶やかな桃の身を指で撫で、澄也は小さく頭を振った。
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