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第77話 手の鳴る方へ⑤

 羽ばたきの音の後で、こつりと何かが窓を叩く音がした。見れば、大きな白い烏が窓の外にとまっている。 「……大きな烏」 「見覚えがあるな」  訝しげな顔をするひまりと健を置いて、ユキは嬉しそうに窓のそばへと駆けて行く。窓に手を掛けたあとで、ユキはちらりと伺うように澄也を見た。頷いて返せば、ユキは器用に窓を開けていく。 『おじじ』  窓が開いた途端に、白い烏は我が物顔で中へと入り込んできた。時折空に姿を見かけることはあったけれど、相変わらず好き好んで澄也に近づいてはこない相手である。ユキはどうだか知らないが、澄也が八咫烏と近くで顔を合わせたのは、澄也が水無川和尚に師事する前が最後だった。 『朝からにおうと思えばこれだ。お前たちはどうして平穏に生きられんのだ。嘆かわしい』 「何? なんだか怒ってない?」 「知り合いだ。大丈夫」 「魔物に知り合いも何もあるかよ」  引きつった声で健がぼやいた瞬間、八咫烏はけたたましい抗議の声を上げた。 『誰が魔物だ! 小童めが』 「うわっ、なんだこいつ! つつくんじゃねえ!」 「魔物じゃないって怒ってる」 「は? ……痛え痛え、分かった。悪かったって! よく分かんねえけど、撤回するからよ!」  健のとりあえずの謝罪に満足したらしい八咫烏は、三本足で器用に近くまで歩いてくると、大きなくちばしで花弁を一枚摘んで掲げて見せた。けれど烏のくちばしが食い込んだ瞬間、薄い花びらは儚く空気に溶けて消えていく。  じっとその光景を見つめていた澄也たちに向かって、八咫烏は呆れたように言い放った。 『幻だ。人間はこんなものも見抜けんのか』 「幻?」  おうむ返しに尋ねた澄也にそれ以上の説明をしようとはせず、八咫烏は黙ってひまりと健を眺めた後で、ユキと澄也に視線をうつした。 『約束は約束だ。道案内をしてやる』  澄也には意味が分からなかったが、ユキにはその一言で十分だったらしい。ぴんと尻尾を立てた使い魔は、興奮した様子で烏に詰め寄る。 『おじじ、手伝ってくれるの?』 『お主が罪滅ぼしをしろと泣きついて来たのだろうが!』 『でもおじじ、ずっと知らんぷりした』 『ヒトには必要以上に関わらんと決めている。それに、白鬼が本気で姿を眩ませれば、儂でも見つけるのには骨が折れる。……あやつめ、ようやく尻尾を出しおった』  桜によく似た白い花を睨むように見据えて、八咫烏は疲れたようにそう言った。 『しろいのにもしっぽがあるの? 何本? ユキより多い?』 『たわけ。慣用句だ』  ゆらゆらと尻尾を揺らして詰め寄るユキを一蹴して、八咫烏は澄也をまっすぐに見つめる。  ようやく掴んだ手がかりを逃すわけにはいかない。掴みかかりたい気持ちを抑えて、澄也は慎重に口を開いた。 「白鬼と言ったのか、今」  八咫烏の言葉を解さぬひまりと健は、澄也の言葉を聞いてはじめて息を呑む。 『……忘れて生きれば良かったものを』 「頼む。教えて欲しい」 『夢と幻はあやつが好んで使うものだ。この花にも見覚えがある。人間を騙して遊びでもしておるのだろうよ』 「あなたにはあのひとのいる場所が分かるのか」 『場所ならそこの小娘が知っておろう』  ひまりを見る。ぱちぱちとまばたきをしたひまりは、澄也と八咫烏を交互に見て、何かを察したようにひとつの町の名前を口にした。 「そんなに遠くないな」 「お前まさか今から行く気か?」  健が呆れたように口を挟む。頷けば、「馬鹿かよ」と健は眉を寄せた。 「ひまりの友だちがこの花見てからもう何日も経ってるんじゃねえの。同じ場所にいるかどうかも分からねえのに」 「いるかもしれない。可能性があるなら行く意味がある」 「……そうかよ」  口振りこそぶっきらぼうだったが、健は澄也を止めようとはしなかった。幼なじみたちは、澄也がどれだけ白鬼にこだわってきたかよく知っている。 「手は必要か」 「今日お店も休みだし、車出そうか? 澄也」  健とひまりは、ほとんど同時に口を開いた。ぽかんと口を開いた後で、澄也は苦笑しながら首を横に振る。 「ありがとう。でも、いい。あのひとが本当にどこか手の届く場所にいるのなら、俺たちだけで捕まえたい」  思い返してみれば、あのひとはユキをそばに置くことは許してくれたけれど、澄也が他人と関わることを好んでいなかった。ふたりでいるときに他人の名を出すことすら嫌がる態度を見せたことすらある。だからきっと、この方がいい。  幼なじみたちの厚意をありがたく思いはしたけれど、澄也は申し出をやんわりと断った。  そんな澄也を、八咫烏は鋭い目で見据える。 『言っておくが、儂は一度しか手を貸さんぞ。今でも儂は、お前はあの鬼と関わるべきではないと思っている』 「構わない。それでも俺は、あのひとに会いたい」 『会ってどうする』 「離れた理由を聞きたいだけだ」 『飽きただけだと言われたら?』 「力試しに挑んでみるのもいいかもしれない」 『身の程を知らぬ愚か者め』  ふん、と鼻を鳴らして八咫烏は澄也とユキを見下ろした。 『儂が案内をしてそれでも逃げられたのなら、お前たちは白鬼の前に立つ資格もないほど力不足だということだ。未練がましく追いかけ回さず今度こそ諦めろ』 「絶対に逃がさない。今度こそ間違えない」 『ユキがいる。ちゃんとしとめる』  主従は声を合わせて宣言した。揃った声に視線を向ければ、ユキは澄也の隣で誇らしげに尻尾を振っていた。 『その言葉、忘れるなよ』  高らかな鳴き声をひとつ残した八咫烏は、悠々と空を上っていく。  その姿を見上げた澄也は、幼なじみたちに見送られながら慌ただしく花屋をあとにした。

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