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第79話 手の鳴る方へ⑦

 不思議に思って辺りを探すが、八咫烏もユキも何も聞こえていないらしい。 『スミヤ?』 「音が聞こえる」  何度か間を空けて響く音をたどっていく。手を叩くような乾いた音は、神社の奥の石碑から聞こえているらしかった。澄也の記憶がたしかなら、それは澄也が血まみれの白鬼に最初に出会った場所だ。澄也が石碑の前に立つと同時に、用は済んだとばかりに音は聞こえなくなった。 「『手の鳴るほうへ』って?」  舐め切った鬼ごっこでもしている気なのだろうか。それともからかうだけからかって、またいつものように気配だけを残して消える気なのだろうか。あるいは澄也が知らないだけで、手を打つことに別の意味があるのか。  石碑を撫でながら頬を引きつらせる。澄也を追ってきたユキもまた、主人の真似をするように石碑に前脚を伸ばした。 『わあ!』 「え? ユキっ!」  使い魔の脚は、石碑にずぶずぶと沈み込んでいた。半ば飲み込まれかけたユキを慌てて澄也は引き寄せるが、のんきな使い魔は目を輝かせて尻尾をぶんぶんと振っている。 『つながってる』 「繋がってる? どこに?」  問いに答えたのはしわがれた烏の声だった。 『地獄だな』 「じ、地獄? こんな簡単に行ける場所にあるものなのか?」 『こちらとあちらの世界は常に重なっている。行こうと思えばどこからでも行ける。地獄と言ってもそう呼ばれておるだけで、お前の思う地獄とは違うがな。こちらがヒトの世界なら、あちらは魔の世界だ。お前には入れない。知覚もできまい』 「この先に白鬼がいるのか?」 『さてな。周りにおらんのであれば、あちらにおっても驚かぬ』  手の届かない場所に逃げ込むほど顔を合わせたくないのかと落ち込んだあとで、ならばわざわざ手を鳴らす意味が分からないと思い直す。いかにも意地の悪いやり方だけれど、捕まえる機会をくれているのだと思いたかった。 「ユキ」 『うん、スミヤ』 「俺はここで罠を張る。いつもみたいに、追い込んでくれるか?」 『たのまないで。ユキはりっぱな使い魔だ。命令だってちゃんときける』  黒と茶色の狐を背後に引き連れ、ユキは何かを求めるように澄也を見る。ほんのわずかに苦笑して、澄也はユキを抱き上げた。目を合わせながら、内緒話でもするように澄也は命じる。 「白鬼を俺の前に連れてこい。どんな手を使っても構わない。引きずり出せ」 『うん。ユキはスミヤのためにいる。ぜったいに逃がさない』 「頼りにしてる」  じゃれるように互いの鼻先を合わせたあとで、ユキは澄也の腕をおり、一切の躊躇なく石碑に向かって飛び込んだ。小さな狐たちもまた、ユキを追って慌てて走り出す。 「俺の使い魔たちの道案内を、よろしく頼む。八咫烏」 『言われるまでもないわ』  澄也をちらりと見た後で、八咫烏もまたユキたちを追って姿を消した。  ひとりきりになった澄也は、ぐるりとあたりを見渡した。罠を張るなら室内の方がやりやすいけれど、幻だと言うなら中だろうが外だろうが違いはないだろう。ならば開けたこの場でいい。  懐からナイフを取り出した澄也は、いつも通りに自らの腕を切り付けた。血で書く術は、炭や白粉よりも効果が高い。できることはすべてやっておきたかった。  血のにおいを嗅ぎつけた魔物は、澄也の血肉を求めて集まってくるだろう。使い魔がいない状態で魔物に襲われる危険は承知の上だ。ユキだって澄也のために得体の知れない世界に飛び込んでくれているのだから、主人である澄也だって、危険を恐れてなどいられない。 「逃がさない」  ぽつりと呟いた澄也は、腕を滴る血を使い、一心に地面に陣を描き始めた。

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