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第82話 手の鳴る方へ⑩

 世界を隔てる扉をくぐり抜けた瞬間、濃厚な血の匂いが鼻をついた。白狐はぺっと毒でも食べたかのように白鬼を吐き出すと、上機嫌に尻尾を振って甘えた声を上げる。  その声を合図としたように、近くで俯いていた青年が顔を上げた。むせ返るような血の匂いを放っているというのに、そんな気配を微塵も感じさせない、清涼な空気をまとった男だった。白鬼が残したままの首輪を隠すためか、首元まで隠れる黒い服に身を包んでいる。禁欲的ながらも鍛えた体の線が見える装いは、わざとやっているのかと疑いたくなるくらいには食欲をそそられた。  歳を重ねた姿を遠くから見たことはあるし、夢でも会った。けれど、こうして直に見てみると、随分と記憶の中の澄也とは雰囲気が違っている。澄也だと分かっているのに、まるで知らない人間のように思えた。 「澄也?」  思わず名を呼ぶけれど、澄也は答えない。返事の代わりに、澄也は白鬼と狐たちをゆっくりと眺めて唇の端を上げた。妙な色気が滲む仕草は、似合わないのにどこか馴染んでいる。 「お前、何をしている?」 白鬼を見てどんな反応をするかと楽しみにしていたことも、顔だけ見せて逃げてやろうと思っていたことも忘れて、白鬼は嫌な予感に顔を引きつらせた。 「おいで」 「は?」 「捕まえられたら、食べていい」  優しげな声で澄也が呟いた瞬間、我を失った様子の魔物たちが周囲から一斉に飛び出してきた。 「馬鹿なことを!」  タイミングがおかしいだとか、主人に忠実なはずの使い魔たちが動いていないだとか、そんなことを考えている余裕はなかった。身を投げ出すような澄也の言葉も、涎を垂らしながら澄也に群がる魔物たちも気に喰わない。不愉快で仕方がなくて、気づいたときには白鬼は澄也の前に足を踏み出していた。 「……っ」  澄也の腕を引き、魔物たちに爪を向ける。その瞬間、息が止まった。そう錯覚するほど、一気に体が重くなった。  空気がのしかかってくるように重みを増していた。血で描かれた陣にまんまと誘い込まれたことに気がついたのは、重みに耐えきれずに膝をついてからのことだった。 「私を騙した? 澄也、お前」 「……ユキ、片付けてくれるか」  掴んだはずの澄也の腕が手からすり抜けていく。命令を受けた白狐が魔物を食い散らかしていく間にも、陣から這い出た鎖は白鬼の四肢を抜け目なく拘束していった。黒い狐が使っていた影の拘束に近いけれど、あの獣のものよりはるかに強い強度と数が、術者のそら恐ろしい執念を感じさせる。  咀嚼音だけが響く空間で、四肢を磔にされた白鬼を澄也の顔をちらりと見た。その瞳には、弱々しい涙どころか、喜びも懇願の気配さえも見られない。ひとを地面に縛り付けておいて涼しい顔とは随分といい度胸だ。つまらないを通り越して怒りさえ湧いてきた。  何を言うでもなく白鬼から視線を外した澄也は、白鬼など見えないかのように使い魔たちに腕を伸ばすと、そっと控えめな笑顔を向けた。 「……ありがとう」  それだけならばまだしも、澄也はごく当たり前のように自身を傷つけると、流れ出た血を使い魔たちに与え始めた。白鬼の頬まで飛ぶほどの血の量は、人間が平気な顔をして流していい量とは思えない。 「澄也」  血を与えていることは知っていた。それでも間近でそれを目にする不快感は形容のしようもなかった。  ――それは自分のものだ。誰の許可を得て与えているのか。  知らず握った拳に本気で力を込めるけれど、術は軋むだけでびくともしない。そんな白鬼を横目で見ながら、白狐は猫のような目を馬鹿にするように細めて、見せつけるように澄也の腕に舌を這わせた。  こめかみに青筋が立つ。この生意気な獣を今すぐくびり殺してやりたい。 「影で休んで。疲れただろう?」 『ひとりでだいじょうぶ?』 「鬼がいる。寄ってくる物好きはいない」 『わかった』  べたべたべたべたと目の前で身を寄せ合う主従の様がひどく癇に障った。澱みを増した白鬼の気配に震える小さな狐たちとは真逆に、白狐はそんな白鬼をあからさまに見下しながら小さな狐に姿を変える。いかにもかわいこぶった仕草で駆け寄りながら、白狐は白鬼の耳元でひと鳴きした。 『スミヤをかなしませるな。次やったら手足をもいで火だるまにしてやる』 「でかい口を叩くじゃないか、ちび。自由になったら喰ってやる」 『できるものならやってみろ。しろいのは一生、ユキたちのおにく係になるんだ! ばか!』 「はあ?」  わけの分からないことを喚いたかと思えば、白狐は鼻先をぐりぐりと白鬼の頬に押しつけていく。ひと通りじゃれついて満足したらしい白狐は、二匹の小さな狐たちを連れて澄也の影へと飛び込んでいった。  あの狐は何がしたかったのか。首を傾げていると、さくさくと地を踏む音が聞こえてきた。無表情の澄也が、静かに膝を折って白鬼を覗き込んでくる。 「……楽しかった? 白神様」  目が合った途端、白鬼は先ほどまでの不快な気分も忘れてにいと笑った。澄也は声こそ平静を装っているが、感情を取り繕うのは大人になっても苦手なままらしい。その目の中にぎらぎらと隠しきれない怒りが浮かんでいるのを見て取って、一気に白鬼は愉快な気分になった。

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