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第84話 手の鳴る方へ⑫

「約束を破ったあなたが許せない。……鬼のことなんて忘れろと何回も言われた。人も魔物も、何度もそう声を掛けてくれた。本気で心配してくれた。だけど、できなかった。諦めてしまおうかと思うたび、あなたの気配を感じた。夢を見た。忘れることなんて、一日だってできなかった……!」  掠れた声は、最後には震えて揺れていた。この期に及んでまだ感情を見せることを恥じているとでもいうのか、澄也は顔を伏せ、白鬼の胸元にごく控えめに額を当てた。 「……どうして俺を捨てたんだ。教えてよ、白神様……」  ほとんど声にすらなっていない言葉を聞いた瞬間、反射的に手が動いていた。けれど、引きつるばかりで動かぬ腕に、戒められていた事実を思い出す。  乱れた呼吸を必死に整えているらしい澄也は、それ以上何を言うこともなければ、顔を上げる気配もなかった。少しだけ考えた後で、白鬼は深々とため息をつく。まだまだいじめてやりたい気もしたけれど、あまりやりすぎて臍を曲げられても面倒だ。 「前にも言った。約束を破ったのはお前だよ、澄也」 「え……?」  声を掛ければ、弾かれたように澄也は顔を上げた。その目に涙が滲んでいないことにほっと胸を撫で下ろしていると、何を勘違いしたのか澄也は自嘲を浮かべ、白鬼から身を離す。 「そうだよな……。俺の神様でいてくれるのは、魂が汚れるまでって約束だった。俺の魂はもう汚れたんだろう。魔物も不幸も相変わらず寄ってくるけど、血で釣らなければ昔みたいな勢いで襲われることもない。あなたにとっては何の価値もない。そういうことなんだろう。それでも俺は――」 「お前は本当に物覚えが悪いねえ」  うなだれたままぐだぐだと垂れ流される言葉を遮れば、迷子になったような目をして澄也は顔を上げた。もう一度小さくため息をついて、白鬼は呆れ半分に言葉を足す。 「私に退屈かと聞いたのはお前だろう、澄也。危機感のない間抜けな子どもだったお前は、退屈だと言った私になんと返した?」  親切がすぎると思いながらも懇切丁寧に問いかけてやれば、澄也は鳩が豆鉄砲を食らったような間の抜けた顔をした。 「……俺は……俺と、遊ぼうって言った? でもあれは……あなたともっと近づきたかったから言っただけで、約束なんてものじゃ――」 「鬼相手に自分から話を持ちかけておいて、そんなつもりじゃなかったなんて通るはずがないだろう。恨むなら馬鹿な自分を恨むんだな。私は契約を破られるのは嫌いだよ」 「恨むなんて、そんなこと……」  何を言われたのか理解できないとばかりに瞳を揺らしていた澄也は、もごもごと何度も口を開いては閉ざし、やがて意を決したようにぽつりと問いを口にした。 「契約……?」 「そう」 「あなたが退屈だったら、俺と遊ぶってことが?」 「そうだよ。分かったらその鳩みたいな間抜け面はいい加減やめなさい。せっかく見目よく育ったのに台無しだ」 「み、見目よく……? ありがとう」  幼いころと比べれば香りが落ちたとはいえ魂が放つ芳香は変わらないし、年を重ねて鋭さの増した容貌には、色ごとを覚え込ませてやればさぞかし映えるだろう美しさがある。  人が集まるようになったと澄也は以前も言っていた。魔物を自らの身で釣ってさえいた。ならば言われ慣れている言葉だろうに、なぜか澄也は照れたように目を伏せた。 「おかしな子だねえ」 「さすがに子って呼ばれる年じゃない。……いや、それはいいんだ。今の話が本当なら、あなたが俺を食べてくれなかったのは、俺がいらなくなったからじゃないのか?」 「うん? 違うよ。私がいつそんなことを言った? お前、食べたらなくなってしまうじゃないか。だからだよ」 「……そんな理由で……?」  へなへなと力が抜けた様子でへたり込み、澄也は縋りつくようにぎゅっと白鬼の着物を握った。 「だって、珍しい魂だって言ってくれたじゃないか。血だっておいしそうに飲んでた。俺を食べようと思ってたから、守ってくれてたんじゃなかったのか? だからあんなに優しくしてくれたんじゃないのか? それなら俺、一番おいしいときに、全部あなたにもらって欲しいと思っただけなのに。血も肉も魂も、全部……」  元から自分のものなのに貰うも何もない。  澄也の言葉に触発されて、いつか味わった血と精気の味が舌の上で蘇る。胸元に添えられた澄也の手から伝わる体温と、俯いたことで顕になった首の線に、忘れていたはずの飢餓感を思い出した。  もう随分と長いこと、人間の肉を口にしていない。  ほんの少し前は、怪我ひとつで大げさに騒ぎ立てる子どもを怯えさせたくなかったから。つい最近は、遊びに夢中でそんな気分でもなかったから。湧き上がった唾液をひそかに飲み下し、白鬼は澄也の言葉を鼻で笑った。

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