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第85話 手の鳴る方へ⑬
「いらないよ。気が変わったと言ったはずだ。こんなに面白いものを終わらせてしまうだなんてもったいない」
「なら一言そう言ってくれればよかったじゃないか」
「腹が立ったんだよ。私はお前で楽しい思いをしているのに、お前ときたら食え食えとうるさいから。まあ、おかげで楽しい趣向にはなった」
くすくすと笑えば、顔を上げぬまま、澄也は地を這うような声を返してくる。
「何も楽しくない。俺は気が狂いそうだった」
「かわいげがないねえ。たかだか季節を何周か巡っただけだというのに。……ああお前、私が憎いんだって?」
「当たり前だ」
「傷つくねえ。私はこんなにお前のことが大好きなのに」
手足は動かせないから、撫で回してやることはできない。けれど顎先を上げて来いと誘えば、正しく意味を汲み取った澄也はおずおずと覆いかぶさってきた。額が当たりそうな距離でじっと黙って視線を交わす。
「……あなたとずっと一緒にいたかったのに」
「『いたかった』? 今はもう一緒にいたくない? 憎い相手だものねえ」
「……諦められたならこんな風に追いかけてない。自分勝手なあなたが憎い。だけどそれでも、あなたのことが好きなんだ……!」
背をかき抱くように抱きしめられる。耳元で感じる澄也の呼吸は浅く苦しげで、強がって泣くのを堪えていた子どものころとそっくりだった。
「澄也」
意図して柔らかい声で呼びかける。ぴくりと肩を揺らした澄也の頬に、耳元に、届く範囲でいくつも口付けを落としたあとで、笑い混じりに白鬼は囁いた。
「寂しかった?」
「……寂しかった」
「この遊び、お前は楽しくなかった?」
「全然楽しくない。もう二度とやりたくない」
ぎゅうと一際強く澄也は白鬼を抱く腕に力を込める。素直な反応を喉の奥で笑いながら、白鬼は機嫌良く問いかけた。
「そう拗ねるな。褒美のひとつでもあげようか」
「……褒美?」
「お前、ずっと強くなりたいと言っていただろう。言葉通り、私を捕まえられるくらい強くなった」
「俺の力じゃない。卑怯だって言ったくせに」
「取り消すよ。お前はきちんと使い魔を鍛え上げた。周りを頼ることだってできるようになった。使い魔を抜きにしたって、自分で自分を守れるくらいに強くなったじゃないか」
肩口に埋もれている澄也の頭にこつりと頭を合わせ、頬を寄せる。
「頑張ったね、澄也」
「……っ」
「ほら、顔をお上げ。久しぶりなんだ。顔を見せて」
「……あなたは意地悪だ」
「何を今さら」
渋々と顔を上げた澄也の目元は、赤く染まっていた。目が合うと同時に、堪えきれなくなったように瞳が潤み始める。
「ずっと会いたかった、……っ」
白神様と呼びかけて自制したのか、言葉尻は不自然に掠れて消える。頬にあたたかい涙の粒がいくつも降ってきては流れていく。白鬼には縁のないその感触を不思議に思いながら、白鬼はごく軽い口調で、そっとひとつの名前を口にした。
澄也は信じられないものでも耳にしたかのように、涙に濡れた目を呆然と見開く。
「それ」
「褒美をあげると言っただろう。昔からずっとしつこかったから」
白神様白神様とうるさかった澄也が名を知りたがっていたことくらい、とうに知っている。あなただの白鬼だのと他人行儀に呼ばれ続けるのもいい加減うっとうしいと思っていた。
「閨以外で呼ぶなよ。青鬼や毛玉はどうか知らないが、私はヒトだろうが魔物だろうが、他人に名を知られるのは好きじゃない」
「……うん」
腕を上げた澄也が、涙を隠すように手のひらで顔を覆う。はじめは、泣き顔を見られることを恥じているのだと思った。違うと気付いたのは、手のひらで覆いきれなかったらしい唇がかすかに歪む瞬間を目にしてからのことだった。
「ありがとう。大切な名前を教えてくれて」
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