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第86話 手の鳴る方へ⑭
「……っ?」
動きを戒める陣とは別に、何かが体を這い上がってくる。全身をくまなく真綿で縛られるようなこそばゆさは、快感と不快感の両方を伴うものだった。
「お前、何を――」
口を開いた瞬間、荒々しく唇を唇で封じられた。口内に広がった血の味は、甘いけれども記憶にあるものよりも濃く深みがある。反射的に嚥下した後で、顔を振って唇を外す。そのままの勢いで額を打ち付けてやれば、澄也はのけぞるように横に転がった。
受け身を取った拍子に、澄也が手のひらの下に隠していた表情が剥き出しになる。
自分で噛み切った唇からは血が流れ、頭突きを食らった額は赤みを帯びている。涙を流していることに変わりはないが、先ほどまでの縋るような目が嘘であったかのように、澄也は冷たくぎらついた目をしていた。
「……何の真似だ、澄也。私を支配しようって? いい度胸じゃないか」
「支配なんて大層なものじゃない。使い魔になって欲しいだけだ。あなたが自分から名を教えてくれるなんて思わなかった。嬉しいけど、準備が無駄になったな」
唇の血を雑に拭いながら、澄也は悪びれもせずにそう言い放つ。けれど、身を起こそうとした瞬間、凍りついたように澄也は目を見開き、喉を押さえるようにして悲鳴を上げた。
「あ、ぐっ! うああ!」
「術を解け。お前、それはいくらなんでも無謀だよ」
使い魔の契約は主従の契約だ。同意があるならともかく、弱い主が格上の魔物を従えられる道理があるはずもない。
「い……やだ……!」
「死ぬよ。解けと言っているんだ」
喉を掻きむしる澄也を見かねて声を掛けるが、澄也は強情に首を横に振り続けた。
「嫌だ! だってそうしたら、あなたはまた逃げるかもしれない!」
「はあ? 分かった分かった。逃げないから、ほら、馬鹿なことはもうおやめ。手足だって動かせないのに、逃げることなんてできないよ」
「し、んよう……できない。あなたがどれだけ気まぐれなひとか、俺はよく知ってる」
頑なな態度を崩さぬ澄也を見て、白鬼は深くため息をついた。
「使い魔になったって、私はお前の命令なんて聞いてやらないよ。お前はたしかに強くなったけれど、所詮はヒトなんだ。鬼に何かを強制できるほどの力が自分にないことくらい、分かっているだろう?」
「知ってるさ。それでもいい。あなたがどこにいるのか分かるだけで……それだけでいい……!」
居場所など、首輪を与えてあるのだからこんな愚かな真似をしなくたって分かるはずだ。そう考えたあとで、はたと思い出す。
「ああ、私は分かるけど、お前には分からないのか」
澄也の魂の抵抗が強かったから、離れる前に首輪を完成させることができなかったのだ。通りでいつまで経っても見つけてくれないわけだ、と手を打ちたい気分だった。
そうこうしている間にも、澄也が無惨に掻きむしった喉からは血が流れ出し、ぽたぽたと涙とも汗ともつかぬ液体が地面に絶え間なく滴っている。
「痛いだろう。かわいそうに。意地を張るのはおやめ。お前はそんな無茶をしなくたっていいんだよ、澄也」
「よくない」
「強情だねえ。やめろと言っているんだ。死にたいのか」
「は、……っ、ぐ……ぅっ」
聞いているのかいないのか、くの字に体を折った澄也は、苦しげに血を吐いている。ついには術を維持する力さえなくなったのか、脆くなった拘束は、白鬼が力を込めるだけであっさりと砕け散った。
死にかけてまで澄也が何がしたいのか、白鬼にはさっぱり理解できない。
乱れて絡んだ髪をかき上げて、苛々としながら白鬼は澄也のそばにしゃがみ込む。
「どうしてそこまで意地を張るんだい?」
問いかけてもひゅうひゅうと掠れた息の音が聞こえてくるばかりで、澄也は返事をしない。まるで死にかけた老人のようなその様子に、白鬼は言いようもない不快感を覚えた。
「人間は脆いんだよ。本当に死んでしまう。いい子だから、やめなさい。澄也」
力の抜けた澄也の体を抱き上げ、頬を撫でる。そこまでしてようやく澄也は白鬼に視線を向けた。血の気の失せた頬を、またひとつ新しい涙が滑り落ちていく。
「お願い、だ……。俺の、使い魔に、なって」
「なぜ?」
「こわいんだ。七年……が一瞬、なら……、俺の生きてる時間だって、あなたにとっては、きっと一瞬、だろ……? 死んだら、終わる。少しの間だけの、契約、だから……あなたの、時間を……俺に、ちょうだい」
途切れ途切れに紡がれる言葉は、わけもわからない焦燥感だけを白鬼に与えた。ここまで不快な言葉があるのかと思うほど、聞きたくない言葉だった。
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