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第90話 手の鳴る方へ⑱

「……は、なれろ」 「お腹が空いた?」 「どけ」 「ユキもたまにそういう顔をするんだ。あいつは何でも食べるけど、あなたが何かを食べているところなんてほとんど見たことがなかったから、ずっと心配だった」 「どけと言っている!」 「どかないよ。いいよ、俺を食べて」  幸せそうに目を細めて、澄也は白鬼が身を起こすのを助けるように背を支えた。目の前のおいしそうな肉だけが白鬼の視界を埋める。 「私は……お前、を……なくしたくない」 「なくならない。ゆっくり、少しだけ。そのための首輪をあなたがくれた。大丈夫だから、怖がらないで」 「……っ、う、ああ……っ」 「あなたに我慢は似合わない。ほら、口を開けて」  まるで子どもに語りかけるような穏やかな口調に腹が立つのに、口に指を押し込まれてこじ開けられると、逆らえない。澄也のくせに生意気だと、まともに思考できたのもそれまでだった。  香り高い器に牙を立ててかぶりつく。噛み千切って飲み込んだ肉の味に、白鬼は恍惚と笑みを浮かべていた。何年ぶりかも分からない血肉の味は、我を忘れるほどにおいしかった。 「は、はは!」  咀嚼音と、ぴちゃりぴちゃりと血を啜る音に混じって、肌がぶつかる音と、狂人じみた男の笑い声が響く。己のものかと思ったそれは、肩からおびただしい量の血を流しながら、白鬼を抱いている男の口から発せられていた。 「俺はおいしい?」 「ん、うっ、ああ……っ、そう、だね」  腹が満ち、ようやく理性を取り戻しても、繋がった場所から絶え間なく与えられる快感で頭が回らない。血まみれなのに先ほど以上に興奮しきった様子の澄也は、凄絶な笑みを浮かべながら白鬼の足を広げ、腰を打ち付けていた。 「嬉しい。幸せだ。ずっと、ずっとこうしてほしかった」 「澄也、もう、やめ……っ、くっ、ぅ……」 「どうして? もっとこうしていたい。あなたの中だってひくひくしてる。気持ちのいいこと、俺に教えてくれるんだろう? 教えてよ、白神様」 「お前」  どうしてそんな性癖を育ててしまったのかとか、甘ったるいのも悪くはなかったけれどこういう乱暴なのも悪くないだとか、ああでも気持ちいいからもう少しだけ体を繋げていたいだとか、そんな取り留めのないことを考えているうちに、白鬼は何度目かの絶頂に追いやられていた。  奥深くまで咥え込まされたものをきつく締め付ければ、びくびくと震えたそれが熱を吐き出す気配がする。それと同時に、白鬼にのしかかっていた体が一気に重さを増して、音を失った。 「……澄也?」  声を掛けても返答はない。青白い顔をした澄也は、完全に意識を失っていた。血で描かれた陣から始まり、使い魔たちに血を与え、身の程知らずの術の反動に苦しみ、挙げ句の果てに鬼とまぐわい肉を与えた。むしろここまでよくもった方だ。 「だからもうやめろと言ったのに」  白鬼が食べたばかりの肩は、傷こそ深いものの血はすでに止まっている。それでも手当てくらいはしたほうがいいだろう。  起きたら最中に寝るなと教えてやらなければいけない。不完全なままの首輪も完成させなければ。目元の隈も気になるから、どこか静かな場所で休ませてやった方がいいかもしれない。つらつらと先の予定を考えながら、白鬼は着物を羽織り、ひょいと澄也を抱き上げた。  疲れ切った様子の澄也の目尻を指でなぞりながら、「それにしても」と白鬼は誰にともなくぽつりと呟いた。 「捨てただなんて、どうしてそう思ったんだろうね。お前を逃してやるなんて一言も言った覚えはないのにねえ。いつまで経っても馬鹿な子だ」  ぷすぷすと指で頬をつついても、ぐったりと眠っている澄也は反応しない。小さく笑って、白鬼は澄也に羽織をかぶせた。 「ゆっくりおやすみ。愛しい子」  額にひとつ唇を落とした後で、腕の中の体を抱え直す。 「帰ろうか」  白鬼の言葉を引き金にしたように、森一帯に張られた幻が歪んで消えていく。  いつになく上機嫌な鬼が木々を渡って跳ぶように駆けていく様を見たものは、空高くからヒトを見守る八咫烏ただひとりだけだった。

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