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第八話

 まだ身体が気怠く腰は重たかったが、海人 はベッドから起き上がった。習慣とは恐ろし いもので、こういうときでも夕飯を作らなけ ればと使命感に支配される。  隣でまだ寝ている空を起こさないようにそ っと抜け出し、乱れた服を整えてキッチンへ 向かった。  階段を下りるとすでに母親が夕飯を作り始 めているようで、香ばしい匂いが漂ってくる。  「俺も手伝うよ」  「あら、海人。休みの日くらい母さんがや るわよ」  「いいよ。もう日課だし」  母親は目尻の皺を深くさせ、やさしい微笑 みを向けた。その顔が空と重なった。  「今夜はなに?」  「カレイの煮付けとお浸し、肉団子の甘酢 和えよ」  「わかった」  壁にはすでにレシピが貼られていた。榊が くれたレシピは空のためを思っての行動だっ たが、苦しめる原因の一つになった。  結果は きれいに纏まったとしても、榊のレシピのご 飯は嫌がるかもしれない。今度料理本を買っ てこよう。  「このレシピって海人のクラスの子がくれ たのよね?」  「そうだよ。調理部の子」  「もしかして付き合ってたりするの?」  母親は海人の真意を探るように、黒い瞳を 輝かせた。  「付き合ってないよ」  「あら、そうなの。でもここまでしてくれ るなら、きっと海人のことを好きね」  「……そんなことないよ」  「年取っても女の勘を侮らないで」  ふんと鼻高々に笑う母親の様子から嫌な予 感がする。  「海人は片づけ苦手だけど、勉強も料理も できるんだからすぐに彼女できるわよ」  恋人のいない息子を励ましている言葉なの に、海人はなにも返せなかった。  肌に残っていた空の体温が急速に冷えていく。母親は海人に恋人ができることを望み、 期待している事実に胸が痛んだ。  けれど海人は空を愛し、また空も同じ気持 ちでいてくれた。官能の入口にも足を踏み入 れた。それを知ったら母親はどう思うだろう と今更ながら思い始めた。  もしかして踏み込んではいけない道に来て しまったのではないか。  でもいまはまだこのままでいたい。  海人は母親の言葉を追い出し、空の温もり を思い出そうとしていた。

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