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第九話

 休日は庭のハンギングチェアに座って読書をするのが海人の日課だ。卵形をしたハンモックの中にクッションを敷き、腰を下ろすとゆりかごのように揺れる。  ちょうど木陰になる場所に置いてあるので、五月晴れの下でも涼しい風が通り抜けていく。  父親が休日になると庭いじりに精を出すので、小さい庭には色とりどりの花が咲き乱れている。ペチュニアやカリブコア、パンジーなど多種の植物たちが自分たちが一番だとばかりに天を向き、蝶や蜂は花粉を取るのに忙しない。  海人たちの家は住宅街の真ん中にあるので静かだ。家の周りを高い塀で仕切られており、人の姿もみえず、この空間だけ切り取られたみたいに感じる。  静寂な空間で読書をすると物語に集中できた。色んな雑念がぷつりと途絶え、物語の世界に入り込める。まるで登場人物になったような臨場感を得て、ついページを捲る指に力が入る。  母親の一言が引っかかり、空と微妙に距離ができてしまった。あれ以来、身体を触れ合う行為はしていない。  海人の反応に薄々気付いたのか、空は無理矢理距離を縮めようとはしない。ただ日に日に機嫌は悪くなっていくようだった。  「やっぱりここにいた」  縁側から顔を覗かせた空は海人を認めるとふわりと笑った。その頬が少し赤いのは昨晩高熱を出したせいだ。空は季節の変わり目に弱い。  「起きて平気?」  「昨日よりは熱も下がったから大丈夫」  「でも調子乗って動き回るとまた熱が上がるよ」  「海人は過保護だなぁ」  ハンキングチェアから起き上がり、空のいる縁側に歩み寄る。近くでみるとブラウンの瞳は水を含み、目尻が桜色に染まっていた。  額を触ってみるとまだ少し高い。  いつものような覇気がなく弱々しい空が子供の頃を連想させた。病床に伏せると一人になることを極端に嫌がり、起きたらまず海人を探す。だから空が目覚める前にできるだけ傍にいるようにしているのだが、今日は時間を見誤ったようだ。  空は床に寝転んだので、海人は慌てて着ていたパーカーをかけてやった。  「平気だよ」  「駄目。まだ熱あるんだから温かくしてなきゃ」  唇を尖らせて不機嫌そうだったが、やはりあまり体調が芳しくないのか素直に従った。  せめて楽に寝られるように膝枕をしてやると嬉しそうに額を擦り寄せた。  「なにを読んでたの?」  「空には難しいよ」  「莫迦にして。俺だって日本語くらいなら読めるし」  「これ英語だよ」  本の中身をみせると空はあからさまに渋面を浮かべた。  「こんなの読んでたらまた熱が上がりそう」  「ほらね」  空の髪を撫でると気持ちよさそうに目を細 めた。寝癖があっちこっちに跳ねている空の 髪は、動く度にぴょこぴょこ跳ねる。その一 束を指で絡ませた。  「すごい寝癖」  「一日中寝てたからね。汗で気持ち悪いし、 風呂に入ろうかな」  「それがいいよ。服も着替えた方がいいし」  「そうするー」 と宣言したものの動こうとしない。猫みた いに頭を擦りつけて海人から離れない。身体が大きくなっても甘えん坊は健在だ。  「風呂行かないの?」  「もうちょっと海人とこうしてたい」  「風呂出た後でもいいじゃない」  「いま一緒にいたいの」  「我が儘だなぁ」  そんな空が愛しくて、つい甘やかせてしま う自分も大概だと思う。空は甘え上手で、海 人は甘やかし上手だと母親はよく言っていた。  手入れの行き届いた庭を眺めながら、ゆっ くりと時間が過ぎていく。こうして傍にいら れる幸せを噛みしめながらも、心のどこかで は恐怖に怯えている。それを悟られまいと肩 に力が入る。  「ねぇ、一つ訊いていい?」  「どうしたの」  「俺たちの関係ってなにかな?」  「兄弟だろ」  何を訊いているんだ、と見返すと 空は哀しそうに眉を下げた。  「やっぱ海人にとって俺は弟なんだね」  「そりゃ十六年も兄弟やってるからな」  「でも普通兄弟でキスはしないよ」  「……急にどうしたの?」  「俺は、恋人にはなれないのかな」  反応を返せなかった。  海人にもすぐに彼女ができると笑っていた 母親の姿が浮かんだ。きっと空にも同じこと を願っている。  空と関係を続けていく限り、母親の望む未 来はやってこない。それは言わば母親を裏切 っていることになる。  返事ができない海人に追い打ちをかけるよ うに空は続けた。  「もしかして俺のこと嫌になった?」  「そんな訳ないだろ」  「だったらどうして俺のことを避けるんだ よ」  「避けてなんて」  「いないって言い切れないでしょ」  図星だった。母親の望みと自分の気持ちに 揺らいでしまい、空との距離感を掴めずにい た。  「海人はなにに恐れているの?」  ぱらぱらと本のページが風に煽られ捲られ る。日射しは温かく風は冷たくて気持ちいい のに、二人の間に流れる空気は重たい。  育ててくれた親を裏切ることを海人たちは している。ずっと隠し通すなんて無理だ。き つく結んだ紐は時間が経つにつれ緩んでいく ように、いつか限界がくる。  けれど、いま、この瞬間、空の手を離せる だろうか。  「俺は絶対に離れないよ」  風呂に入ると空は立ち上がり、家の奥へと 引き上げていく。  膝の重みが軽くなったけど空の熱はしばら く残っていた。  慣れない畳の上で横になると、真新しいい 草の匂いが鼻腔を擽り心の靄が少し落ち着いてくる。枕にしている座布団の位置を調整し て、海人は目を瞑った。大音量で流れるテレ ビは祖母の耳が悪いことを示していた。  空が風呂に入っている隙に、海人は祖母の 家に足を運んだ。自分の気持ちを整理するた めに、少しの間でも空と距離を置きたかった。  座卓の上には海人の好きなお菓子が用意さ れ、祖母に歓迎されているようで安心した。  でも空との関係を知ったら祖母はどうするの だろう。軽蔑するのか悲しむのか哀れむのか、 どちらにせよ最悪なシナリオしか描けない。  「空はどうしてるんだい?」  「また熱出して寝込んでる」  「相変わらず、季節の変わり目には弱いん だね」  祖母はお茶をすすって、ぼんやりとテレビ を眺めている。突然の来訪にも祖母は理由を 訊いてこず、黙って茶菓子を用意してくれた。  気まぐれに孫が遊びに来た程度にしか思って ないのかもしれない。けれどそのなにも構え ていない自然さがすべて包み込んでくれそう な気がした。  「俺、空が好きなんだ」  自然とするりと言葉が出てきた。横 になっているから座卓が邪魔で祖母の表情は わからない。すぐに反応は返ってこず、その 時間は数分にも数時間にも思えるほど長く感 じた。  「そっか」  祖母はそう一言返すと、また湯飲みに口を つけた。  「兄弟としてじゃないよ。ちゃんと恋愛対 象として」  「わかってるよ」  「反対しないの?」  咄嗟に身体を起こして祖母をみやると、糸 のように細い目が垂れ下がっていた。  「だって普通は兄弟でおかしいって言うで しょ」  「そうかもしれないね」  「じゃあ……」  「ただどうして空なのか教えてくれるか い?」  海底を探索するように自分の気持ちに目を 向ける。奥深く眠っている宝箱を開けると、 時間が巻き戻っていく。最後の一枚に突き抜 けるような青空と青い海が浮かんだ。  祖母は座卓にあるみかんの皮を剥き、丁寧 に筋まで取ってから口に含んだ。食べ終わる まで海人は待った。  「ばあちゃんは、どうしてじいちゃんと結 婚したの?」  「両親に決められたからだよ」  祖母は部屋の隅にある仏壇をみやった。戦 争で亡くなったという祖父は若い頃の写真が 飾られている。軍服を着て意志の強そうな瞳 をしていた。  「嫌じゃなかった?」  「最初はすごく反抗したね。でもすぐにや さしくて誠実な人だとわかって、とても幸せ だった」  結婚してすぐ祖父は亡くなり、女手一つで 母親を育てた。たくさんの苦労をしてきたは ずなのに、そう感じさせないのは祖母の中で 祖父が生き続けていたからだと思った。  「空が笑うと嬉しかったんだ」  甘えん坊で泣き虫の空はいつも海人の隣に いた。まるで磁石みたいにくっついて離れよ うとはしなかった。  無条件に海人を信じる空の期待に応えよう と、背伸びすることが増えた。空が望むこと は全部自分の手で叶えてあげたくて必死だっ た。  ただ空の喜ぶ顔がみたいという気持ち一 つで、海人のすべては成り立っていた。  「空が笑ってくれるだけで頑張ろうって思 えた。勉強もスポーツもなんでも、空にたく さん教えてあげようって。ただ空に必要とさ れたかった」  祖母は相槌も打たずに黙って聞いてくれて いる。海人は唇を湿らせた。  「でも空が学校でモテるようになって、す ごく嫉妬した。当たり前のように隣を陣取ら れて、そこは俺の場所なのにって思ってた」  「そう」  「それでも反対しないの?」  「して欲しいならするけど」  「本当はちょっと期待してた。ばあちゃん に反対されたら、わかったって空への気持ち を消そうとしたかも」  「それは狡いね」  祖母の険のある声で、海人の肩は跳 ねた。  「責任を人のせいにはしてはいけない。自 分の人生は自分で決めないと駄目だよ」  「だって俺の意志では空と離れることはで きないんだ。いまだって、ばあちゃんと話な がら空のことを考えてる。早く会いたいって 思ってる」  「海人は空と離れたいの?」  「離れたくない。でも……母さんたちを裏 切る真似はできない」  「それは困ったね」    祖母は人事みたいに軽く返し、またお茶を 啜った。なにを言っても動じない姿が年の功 とでも言うのだろうか。  「海人!」  第三者の声に振り返ると空は仁王立ちして 海人を見下ろしていた。  「空、いつから……」  「いま来たところ。風呂から出たら海人が いないんだもん。探したじゃん」  「ごめん」  「愛されてるわね」  祖母は呑気に笑い、二人の様子を楽しそう に眺めている。  「ほら、帰ろう」  「うん。ばあちゃん、話聞いてくれてあり がとう」  「気を付けてお帰り」  空が手を差し出したので海人は自分のもの を絡ませた。温かくて大きな手のひら。この 温もりをいつも求めている。  「海人」  呼び止められ肩越しで振り返ると、祖母は 湯飲みに視線を落とし神妙な表情をしていた。  「人と違う生き方をすることは、その分辛 い選択を迫られる。自分はどうすべきか、き ちんと考えて行動するんだよ」  「わかった、ありがとう」  空の手に引っ張られて祖母の家を後にした。 手を繋いだままゆっくりと歩き出す。絡ま せた指が熱くて空の体温に溶かされてしまい そうだ。  「急にいなくなったりしないでよ」  「ごめん」  「ばあちゃんとなにを話してたの?」  「人生相談」  「なにそれ」  鈴が鳴るように空は笑い、海人も釣られて 笑い出した。二人の声が橙色の空に吸い込ま れていく。  「俺がさっき言ってたこと考えてたんでし ょ?」  「うん」  「答えは出た?」  「空のことが好きだよ。ずっと離れたくな い。それだけじゃ駄目?」  「俺は恋人になりたいって言った。それじ ゃいままでと変わらない」  空の声がワントーン下がり、言葉の端々に 棘を含ませている。  「じゃあ訊くけど、恋人と兄弟じゃなにが 違うの?」  「心が違う」  「……心?」  「俺のことを一番に想って俺だけのことを考えて。ずっとずっと一緒にいたいって思っ て貰いたい」  「そんなの思って」  「思ってないよ!」  途中で遮られてしまい、続くはずの言葉が 身体の中に戻っていく。  「海人は俺の気持ちとは違う」  「そんなことない」  「じゃあなんであれから避けるの? キス したのがそんなに嫌だったの?」  「違う。だって……」  言ってもいいのだろうか。母親が自分たち に求めている未来を。それを言ったらきっと 空も悲しむ。でも黙ったままでいたら最悪な 結末が訪れるような予感があった。  「海人は卑怯だ」  絡ませた指が解かれて空は海人を追い越し ていく。夕陽に沈む地平線の向こうに、空の 背中が橙色に変わった。  「空が青い」  見上げると目を瞑りたくなるような蒼穹が 広がっていた。雲一つない空をみて、幼い空 は屈託なく笑った。  まだ幼い二人は一度だけ両親の目を盗み、 近くの防波堤へ行ったことがあった。身体の 弱い空を連れ出すのは不安だったが、本人の 強い希望だったので海人はできうる限り叶え てやりたかった。  防波堤に座った空は短い足をぷらぷら揺ら した。  「ねぇ、どうして空が青いか知ってる?」  「確か地球の大気成分が太陽の光を散乱さ せて青くみえるんじゃなかったっけ?」  「海人は夢がないなぁ」  「この前学校で習っただろ」  「もっとロマンチックに考えて欲しかった んだけど、海人は頭が固いからムリか」  理論的に答えを出したのに、駄目出しをさ れるとイラっとする。弟の無邪気な幼さをす べて受け入れられるほどまだ成熟していなか った。  空は海人が機嫌を損ねているなど露ほど思 っていないようで、防波堤に立ち上がり水平 線を指さした。  「空は海に恋してるから青いんだよ」  「は?」  まさか空から「恋」という単語が出てくる と思っておらず、弟をまじまじと見返した。  空は恥ずかしそうに頬を赤らめていた。  「俺たちが双子なのも、空と海が青いのも きっと同じ理由だよ」  「理由?」  「だから海人のことが大好きだってこと!」  青空と青い海を背にした空の笑顔が一段と 眩しく映り、海人の目に焼き付いた。  ーーこの笑顔を護りたかったんだ。  「空!」  大声で呼び止めても空の足は先へと進んで いく。追いかけると小石につんのめり転びそ うになった。それでも足は前へと向かう。  「空、空、空」  腕を伸ばして空のシャツを掴む。ようやく 空は歩くのをやめた。  「ごめん、俺は空の言う通りに卑怯者だ」  涙が込み上げて海人の頬を濡らす。その様 子を空は黙って見守っていた。  「俺には覚悟がない。空を一番に好きだと 言いながら、なにも決められずにいる。いま だって空の手を取っていいのかわからない。 ただ」  祖母の言葉が蘇る。いま海人の人生の中で 大きな分岐点に立っている。一つの選択がこ れからの道を左右し、自分だけではなく周り も巻き込んでしまう。  それでも絶対に揺るがない思いがあった。  「空を幸せにしたい」  ただその想いだけは絶対に変わらない。  「だったらずっと傍にいて。海人の心をち ょうだい」  空の胸の中に閉じこめられ、離さないとい う想いが腕の強さから伝わってきた。  「絶対、空を幸せにするから」  涙が次から次へと溢れてきて、空の胸を濡 らした。

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