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第137話 縄張り争い①
ハセは入店してから初めて長谷川の顔を見た
長谷川はその視線だけで金縛りにあったようになった
「こないだ行ってきたけどいい店だな。あれが今時の流行りってやつ?」
開いて置かれた雑誌には、丸々1ページ使ってミナミのカフェが掲載されていた
店内やテラス、フードメニューの写真の他に、小さくだが、笑顔で写るミナミの写真が載っていた
「何を…言いたいんですか」
身体の震えは抑えることはできても、声の震えは抑えることができない
ハセは細い目をさらに細めて
「この店くれればチャラ」
と微笑んだ
「それは…」
「ここにバイトの女がいるだろ?」
「は?」
急に話の矛先が変わって、長谷川は対応しきれずにいた
「前に【マイン 】で働いてた女だろ。俺に黙って足抜けさせたのか?ババアの店なんかより、それが許せねえ」
ハセの声が次第に低く、鋭くなっていった
長谷川の脳裏にアイナの顔が浮かんだ
それを見透かすかのように、ハセは鋭い眼光を長谷川に放った
しかし、一瞬で元の表情と声に戻すと、
「実務はあいつらに任せるから、準備しとけよ」
カウンターの二人を見て、席を立った
「うまかったよ」
「じゃーな」
カウンターの二人も、ハセが席を立つと同時に席を立った
「あ、お会計…」
スタッフの一人が店を出る3人に声をかけようとすると、ボックス席から戻ってきた長谷川が遮った
「そのお客さんはもらってるから大丈夫だよ」
長谷川はそう言うと、自分もウイスキーのダブルを注文してマサトの隣に座り、まだジンバックが残っているマサトのグラスを見た
「ジンバックのカクテル言葉は【正しき心】だったか」
「…」
「俺はどうすべきだ?マサト」
マサトを見る長谷川の目は、まっすぐに自分の進むべき道を見つけた目だった
「知ってることを全部話してください。そうですね…2016年3月19日から」
その日付を聞いた長谷川の瞳が揺らいだ
以前は、厚顔無恥も甚だしい人を食って掛かるような態度だったのに…
(それだけ堪える何かを言われたってことだ)
マサトの頭にミナミがよぎった
(ミナミを人質に取られた?…いや、まさかな)
マサトはその馬鹿げた考えを打ち消した
長谷川のような男が1年以上も彼女持ちのノンケの男を想い続けるなんてあり得ない
長谷川は、スタッフに「しばらく頼むな」と言うと、マサトをバックヤードに連れていった
そこはVIPルームでも応接室でもなく、空の酒瓶を入れておくケースが重ねて置かれただけのただの倉庫だった
「普通の店なんですね」
マサトは薄汚れたコンクリートの床を足の爪先でこすった
「なんだと思ってたんだよ」
「怪しい取引が行われる部屋とか…」
「ねーよ。バーなんて、プッシールーム と違ってカツカツだっての」
長谷川はマサトに伏せたケースを勧めた
マサトはそこに腰かけた
長谷川はタバコの箱を取り出しマサトにも勧めた
マサトがそれを断ると、長谷川は自分だけタバコを咥えたが、火はつけなかった
そして唐突に喋りだした
「…あの日、ハセが逮捕された日、俺はハセがその日抱く女を調達してた。最高ランクの女を捕まえるために、【THEATRO 】の知り合いに頼み込んで店に入れてもらったんだ。そこで目をつけたのが滋さんだよ」
マサトはじっと長谷川を見た
マサトが聞きたいのは当然そんなことではなく、その後のことだ
マサトの視線に促される形で、長谷川は話し続けた
「滋さんを酔わせて、ハセと落ち合う予定だったホテルに連れ込んだ。その時、お前から電話がかかってきた。俺がマネージャーのフリをして嘘をついたのは、まあ、お前も知っての通りだけど、その直後、仲間の一人からハセが逮捕されたと電話があったんだ。だから俺は眠っていた滋さんを残してホテルを出た」
ハセが逮捕された日付を聞いた時から淡い期待を抱いていた
真実は、いま、長谷川が言ったようなことだったかもしれないと
「…本当だった」
マサトは、鳩尾の底の方から涙がせり上がってくるのを感じた
―滋は傷つけられてなどいなかった―
そんな過去を含めて愛していたが、全く気にならないと言えば嘘になる
例えば寝ているとき、滋はうなされることがある
例えば祝いの席、滋は酒を飲まない
例えばセックスのとき、滋はつらそうな顔をすることがある
でもそんなときでも、うっすらと目を開けて、マサトの顔を見てにこりと笑う
だからマサトは滋を本気で抱くことをしなくなった
こんな健気な女を、一体誰が自分の手でさらに傷つけることなどできるだろうか
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