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17 名前を呼んで
その夜は、約束通り前立腺マッサージはしなかった。前立腺マッサージは。
「だから約束は守りますってば。酷いなあ、誉さん」
「ご、ごめんな」
「ん、いいですよ」
そりゃあ、疑って悪かったとは思う。だけどほら、あれは本当騙し討ちみたいなものだろ? という言葉は呑み込んだ。高井の本気度は不明だけど、付き合うことに同意した以上、諍いになりそうな話題は避けたい。
本当に俺と付き合う気なのか? という疑問は持ったままだけど。少なくとも俺は、今もまだ信じられないでいる。だって、相手はベータな俺だぞ?
確かに俺は、高井を後輩としては過分なほどに可愛がっていた自覚はある。こういった感情は口に出さずとも相手にも自然と伝わるものだから、高井も俺からの好意は理解していた筈だ。高井がそれを恋愛感情に絡めて考えていたのは意外だったけど。アルファにしては随分と擦れてなくて純朴だから、好きの種類を混同している可能性はある。
つまり――高井は先輩に対する尊敬の念を恋愛と勘違いしているんじゃないか? てことだ。
俺に関しては、正直自分の気持ちが分からない。これだけのことがあっても相変わらず高井を可愛い奴だと思ってるし、身体を繋げたのに忌避感もなく、今だって高井に身を委ねてマッサージをしてもらってる。なんで俺は平気なんだ? と不思議に思っても、「高井だから大丈夫」という安心感があるから、としか言えない。そう、高井の隣は安心するから平気なんだよ。訳が分からないだろ?
ちなみに相手に自分の感情が伝わるのは好意に限らず、逆もまた然りだ。何となく嫌だな、と思っている相手は、こちらのことも段々と遠ざける傾向にあると俺は考えていた。
このことを考えると、いつも思い出すのは緊張しながら顔色を窺う日々を過ごした実家のことだ。反発するには、親父が語る言葉はぐうの音も出ないほど正論だった。だから俺は逃げるという選択肢を考えなかった。常に気を張って接してきていた俺のことを、親父はどう見ていたんだろう。親父が家に居づらくなったのは、もしかして――。
ここまで考えると、いつも思考停止するの繰り返しだった。
「先輩? 気持ちよくないですか?」
知らない間に眉間に皴を寄せていたらしい。仰向けに寝転んで手のひらを揉んでもらっている俺の顔を、高井が心配そうに覗き込んできた。
「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」
「考え事……僕のこと、ですか?」
小さく震える高井の声。おい、なに怯えたような声を出してるんだよ。
俺は口角を上げると、小さく首を横に振る。
「いや、違うよ。親父のこと」
「あ……そうですか」
分かりやすいほど安堵した声に、アルファな高井でも不安になることがあるんだなあ、なんて不思議に思った。この流れは、どう考えたって「俺に嫌がられてるんじゃないか」ってことだろ。馬鹿だな、俺が高井を嫌うことなんてないのに。
「その手のひら押すやつ、滅茶苦茶気持ちいいよ」
「これですか? じゃあもう少し念入りにしましょうね」
「ああ、頼む」
なお、引き出しから取り出した透明の液体が入ったボトルの正体は、ホホバオイルというものだった。正体不明の名前に俺がぽかんとしていると、直接肌に塗っても問題ないものだと説明してくれた。マッサージにも使えるらしい。
ちなみに、アロマなんかに使うオイルは、希釈しないで使うと刺激が強すぎて肌トラブルが起きるんだとか。全く知らなかったよ。
さすがはアルファ、物知りだなあと感心していたら、高井のお姉さんが冬場に肌が乾燥しがちな高井に教えてくれたんだという。
俺はひとりっ子だったから兄弟の関係の深さがどういったものなのか分からないけど、この感じなら家族との仲が特別悪いといった訳ではなさそうだ。
入社して比較的まだ浅い頃、高井とある程度打ち解けてから、家族構成は聞かせてもらっていた。両親は健在で、姉がひとりの四人家族。その時俺は、ただ「へえー、確かに末っ子っぽいよな」とだけ言ってその話を終わらせた筈だ。
家族の話を聞けば、自然と自分の話もせざるを得なくなるからだ。親父の自殺については、自分から話さなければいいだけの話。それでも、家族のことを話す時に不自然な態度になったら――そう思うと、これ以上家族の話題を続けるのは無理だった。
俺の態度は、敏い高井には一目瞭然だったのかもしれない。以降、高井は家族の話は一切俺に振ってこなくなった。気を遣わせていることは理解しても、下手に思い起こさせたくなくて何も言えないままでいた。
昨日親父のことを高井に伝えた後も、高井は何も言ってこない。俺を抱く時に、「セックスは安田先輩のお父さんが言っていたような堅苦しいものなんかじゃなくて、もっと楽しくて愛があって気持ちいいものなんだって、僕が教えてあげたいんです」と言っていたあれだけだ。
「誉さん、指はどうです?」
「ん、気持ちいいよ」
高井の大きくて温かい手が、ただひたすらに気持ちいい。
「誉さん、ちゃんとお肌のケアしないと駄目ですよ。肘のここなんか、ひび割れてるじゃないですか。年末年始で全身ピカピカな肌に戻しましょうね」
「んー?」
肘? 肘のケアなんて必要なのか? 面倒だな、という気持ちで適当に相槌を打つと、高井が声を荒げた。
「あ、誉さんやる気ないですね!?」
「どうしてバレた」
「バレますよ! 誉さんは自分のことをおざなりにし過ぎなんです! 今みたいに人の仕事ばっかりやってたら、その内倒れちゃいますからね!?」
まあ僕が絶対そんなことさせませんけど、なんて呟かれて、俺の先輩としての立場は一体。
何故か急に居た堪れなくなってしまい、別の話題を振る。
「……お前さ、恋人ができたら相手にはどうなるタイプなの?」
「恋人ができたらってなんですか。僕の恋人は誉さんですってば」
ぶすっとした声が聞こえてきて、もしやと思って瞼を開けた。案の定、唇を少し尖らせて膨れている。可愛いんだからなあ、もう。
目が合うと、高井が不貞腐れ顔のまま、「あ」と何かを思いついたような声を漏らした。
「そうだ、誉さんがまだ距離感があるのは、会社の先輩後輩の延長線上にいるからなんじゃないですか? だったら僕のことは『高井』じゃなくて『朝陽 』って呼んで下さい」
「は?」
急にどうした。
「お願いです! 僕、誉さんに名前で呼ばれたいです!」
ぺこりと頭を下げる高井。だけど、俺は正直、名前呼びは大の苦手だった。安西のことだって、勉と呼んだことは一度もない。
「ええ……俺、友達はみんな名字でしか呼んだことないし……」
やんわり断ると、高井が噛みつくように言う。
「僕、友達じゃないです! 誉さんの恋人ですよね!?」
「う……そりゃまあ、そうだけど……」
こいつはまた、頂戴と訴える大型わんこのような目で……! 俺がコレに弱いって絶対分かってるよな!?
高井のマッサージしていた片手が、するりと俺の鼠径部に伸びていく。と、ぬるりとした指がパンツの下から入り込んできた。
「うおっ!?」
「はあ……っ、温かい」
桃色の吐息を漏らしながら、人の大事なところをムギュッと掴む高井。な、な、なにを……!
「た、高井!? 今日は前立腺マッサージはしないって……!」
「これは違うでしょ」
唇を尖らせたままの高井が、子供みたいな口調で返した。それを聞いた途端、俺の心臓が何故か「キュンッ!」と激しく存在を主張し始める。えっ!? わ、な、なんだ!? ま、まさか俺は、高井のタメ口に……?
高井が手首を使いながら、パンツの中から俺の俺を取り出していった。ちゅこちゅこと軽く扱かれるだけで、昨日空っぽになった筈なのに兆し始めるってどういうことだ。
「ま、ん……っ」
腰を引こうとした途端、高井が鼠径部をもう片方の手で上から押さえ込む。
「ちょっ」
顔を俺の元気になり始めた雄に近付けると、舌をれ、と出しながら横目で俺を見て、言った。
「誉さんがイくのが先か、僕を朝陽 って呼ぶのが先か勝負しましょうか」
「はっ!? まっ、お前そんなところ――アッ!?」
ぱくりと口の中に呑み込まれ、俺は悶える。
「誉さん、呼ぶまで何度でもイかせますからね」
「ま、ま……っ」
「んー、おいひいれふ」
そこで喋るなー! という俺の心の叫びは、高井のテクによって掻き消され。
「あ、朝陽 ……、もう、無理……呼ぶから、ちゃんと呼ぶから……っ」
息も絶え絶えに脱力した俺を、止めろと言っても俺から出た白濁した液体をごくんと呑んでしまった高井が、いたずらっ子のような目をしてのたまった。
「二回ですか。もっと意地を張ってもよかったのに」
「お前な……っ」
「あは」
高井、もとい朝陽はアルファっぽくないところがあると思っていたけど、何が何でも自分の望む通りに持っていくあたりはやっぱりアルファだ――とようやく気付いた俺だった。
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