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21 朝陽の不調

 彼女と元サヤになり、人生プランの擦り合わせも年末年始で行い実に円満だ、という安西にランチに誘われた。  だけど朝陽が、「誉さんは僕と約束してるので遠慮して下さい」とにっこり笑顔で俺が答える間もなくすげなく断った。素早い。 「高井、もしや俺とほまちゃんのアレ知っちゃった? だから警戒してる?」  頭を掻きながら何故か照れくさそうに尋ねる安西を見る朝陽の視線の冷たいことと言ったら、凄かった。笑顔だけど目がちっとも笑ってないんだよ。なまじ顔が良すぎると、恐ろしく見えることもあるんだなって、朝陽と知り合ってから知った。  笑顔のまま、絶対零度の声色で朝陽が返す。 「アレとか言わないで下さい。アレもなにも、何もなかったでしょう? そういう思わせぶりな発言はよくないと思いますよ」 「おっとお?」  相手の感情の変化には機敏な安西だ。朝陽の機嫌がすこぶる悪いことにはすぐに気付いたみたいで、「番犬が怖いから、ほまちゃんまたね!」と八重歯を覗かせながらそそくさと去っていった。というか、お前も朝陽を犬に見立ててたのか。  にっこり笑顔で手をひらひら振っていた朝陽を、じろりと睨む。 「お前な、脅かしすぎだって」 「何がです? 誉さんとあの人は何もなかったですよね? 何ひとつなかったのにアレって言う方がおかしいと思いますけど」  笑顔がやっぱり怖い。これはあれか。自分で言うのもなんだけど、もしや朝陽は嫉妬……しているんだろうか?  俺より上に顔があるのに甘えたような上目遣いになった朝陽が、唇を尖らせる。 「それともまさか誉さん、僕が助け出す前に僕に言えないような何かがあの人とあったんですか……?」 「縁起でもないこと言うなよ、気持ち悪い」  安西と何かあるだなんて、考えただけでゾッとしたじゃないか。思わず鳥肌が立って両手で二の腕をさすっていると、朝陽が実に嬉しそうに笑った。 「へへ、僕は拒絶されなかったってことは、誉さん的に合格だったってことですよね! 嬉しいです」 「――ばっ、し、仕事しろ!」 「はいっ!」  今度は温度のある笑顔で前に向き直った朝陽を見て「ヤレヤレ」と思っていると、離れた席からこちらを見ていた三十路後半腐女子社員と目が合う。  満足げに深く頷かれ、俺はそそくさとモニターの影に隠れることにしたのだった。 ◇  昼休みのチャイムが鳴り、朝陽と並んでエレベーターホールへ向かっていると、前方に人だかりができているのが見えた。 「なんだ?」 「朝もみんな何かを見て騒いでましたよね」  どうでもよさそうに朝陽が答える。と、朝陽の鼻がスン、と鳴り、眉間に不快げな皴が寄った。人差し指で鼻の穴を塞いだ朝陽が、驚くほど冷めた眼差しを前方に向ける。 「朝陽?」  もうすっかり高井と呼ぶことすら忘れていた俺が尋ねると、朝陽は俺の腕をぐいっと掴み、「階段で行きましょ」と踵を返した。 「えっ? でもエレベーター……」 「階段の方が健康的ですから」  そりゃまあそうなんだろうが、わざわざ階段で行くほどの混雑じゃないと思う。しかし一体なんだろうと人だかりの方を見ていると、ひとりだけやけにオーラが輝いているように見えるパンツスーツの女性――いや、あれは綺麗で華奢な男性か――が、例の瀧とこちらを指差している姿が見えた。 「ん? 誰だあれ」 「誉さん、行きましょうってば」 「え? でも、こっちを指差してないか? 朝陽の知り合いなんじゃ、」  人との軋轢を極力避けて生きてきている俺は、人を無視するという行為は勿論苦手としている。どう見ても朝陽に気付いて近付いてこようとしている人間を放ってもいいのか? と思っていると。 「――失礼します!」 「え? おわっ!」  朝陽は突然背後から俺の腰に腕を回したと思うと、ひょいと縦抱きで持ち上げてしまった。 「長寿庵並んじゃいますよ。いきましょ、誉さん」 「ちょおっ!? 歩く、歩くからっ」  身体を捻り、慌てて朝陽の顔を覗き込む。 「……朝陽?」  眉間に深い皴を刻んだ朝陽の顔を見て、抵抗する気が萎れていった。どうした? こんな朝陽の不機嫌そうな顔は初めて見たかもしれない。 「……危ないですから、首に手を回して下さい。お姫様抱っこよりはいいですよね?」 「あ、はい」  どう対応するのが正解なのか分からなくなって、会社の廊下にいて後輩に抱きかかえられているというのに、俺は素直に朝陽の首に腕を回す。  スタスタと非常階段へ向かって行く朝陽。触れてみて、あれ? と思った。  いつもは温かい朝陽の肌が、今はやけにひんやりと冷たい。 「……お前、体調が悪いのか?」 「外に早く出たいです」 「わ、分かった」  余裕のなさそうな朝陽の様子に、俺はもうそれ以上余計なことを尋ねるのをやめた。  朝陽に抱えられて揺られながら、そういえば、と後方を見る。  確かにこちらを見ている、人だかりの中心に女王のように立つ綺麗な男性の冷めた表情に、ゾク、とした。俺と目が合ったことに気付くと、馬鹿にしたように小さく笑い手で口を押さえる。  ――なんだあれ……。  唖然としていると、どことなくはしゃいだ様子の瀧が彼の華奢な背中に手を回し、エレベーターホールの方に連れて行くのが見えた。  朝陽は非常階段に続くドアを開けると、急いで閉じて周囲を見渡す。誰もいない。ここは七階なので、殆どの社員は階段を使わないのだ。  ドアの前に俺を下ろすと、ハア、と安堵したような息を吐いた後――俺を抱き締めた。 「あ、朝陽? お前具合が、」 「誉さんのうなじの香り、嗅がせて下さい……」  腰を屈めて、のしかかるようにしてうなじに唇をくっつけた朝陽。触れ合った部分からも、朝陽がじっとりと変な汗を掻いているのが分かった。やっぱり様子がおかしい。  スーッと息を吸い、俺の匂いを嗅ぐ朝陽の背中に手を回し、トントンと落ち着かせるように優しく叩く。朝陽の心臓がドキドキいっているのが、手のひらから伝わってきた。  暫く抱き竦められている状態が続いた後、どこか強張っていた朝陽の身体の力がフッと抜ける。  耳元で、いつものいい声で呟いた。 「誉さんの匂い、大好きです」  どうした突然。 「お、おう」  とりあえず加齢臭とかワキガとかじゃないなら、まあいい……のか? 俺の匂いってなんだろう? という疑問はさておき。 「温かい匂いだから落ち着くんです。他の人に嗅がせないで下さいね」 「お前以外は誰も嗅ごうとも思わないだろうけど……そもそも匂いに温かいとかあるのか?」 「はい。僕の、僕だけの……」  どこかまだ辛そうな朝陽の様子に、無理して離れろと言うのも憚られて、俺はその後も朝陽が自ら離れていくまで背中を撫で続けた。  朝陽がようやく落ち着いた頃、階段を下りて長寿庵に向かうと、店の前には長蛇の列ができていた。結局、すぐに食べられる立ち食い蕎麦にする。  隣で蕎麦を啜りながら、申し訳なさそうな眉をして謝る朝陽。 「誉さん、親子丼じゃなくてすみません」 「いや、掻き揚げ蕎麦も美味いからいいって。気にするなよ」 「はい。誉さんって本当優しいから大好きです」 「ぶふっ」  朝陽が、何も言わないで普段通りニコニコしているから。  だから俺は、「あれって知り合いじゃなかったのか?」というひと言が、どうしても聞けなかった。

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