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23 一緒の食事
定時を告げるチャイムが鳴ると、朝陽が驚くほどのスピードで片付けを始めた。
「誉さん、パソコン閉じましたか!」
「えっ!?」
「今すぐ閉じて下さい!」
「あ、はい」
勢いに負けた俺が素直に全てのプログラムを終了させていると、いつぞやのように朝陽が小走りで俺のコートまで取ってきた。素早い。
「閉じましたか!?」
「わ、待って」
「急いで下さい!」
慌ててシャットダウンを選ぶ。まだ閉じてないプログラムがあったらしく、強制終了しますかのポップアウトが出てしまった。俺がアワアワといいえを押そうとしていると、朝陽の長い腕がさっと伸びてくる。大きな手がマウスを握る俺の手を覆うと、躊躇いなく『はい』をクリックした。
画面上でまだクルクル回っているサインを無視して、朝陽がラップトップの蓋をパタンと閉じる。ここまで、一瞬だった。
唖然としてしまい、俺の頭の上から覗き込んでいる形になっている朝陽を口をあんぐり開けて見上げる。
「お前な……」
文句を言いかけていると、顔の前に朝陽の手がスッと差し出された。
「さ、行きましょ!」
……大型わんこのような嬉しそうな笑顔を前にすると、俺は「ま、いっかなー」と思っちゃうんだよ。俺が朝陽のこの笑顔に弱いのを、こいつは絶対分かってやってる気がしてならない。
「全く……そんなに焦ってどうしたんだよ」
そう言いながらも、朝陽の手を取った。朝陽はすぐさま俺の手を握り締めると、力強く上に引っ張る。
朝陽が、眉をキリリとさせながら答えた。
「誉さん。まさか、さっき約束してくれたこと、忘れてませんよね?」
「さっき?」
「今夜のことです」
「あっ」
まさかこいつ、俺がさっき今夜抱いていいぞと言ったせいで、こんなアホみたいに焦ってるのか。
――天下のアルファ様が。
「……誉さん?」
朝陽の不可思議そうな表情を見ていると、じわじわと腹の奥底から笑いがこみ上げてきた。
「ぷ……っ、くく……っ、あはははっ!」
「えっ、誉さん?」
なんで俺が笑ってるのかが分からないらしい朝陽が、不思議そうな顔をして焦っているのもまた可愛い。
「あの、何がそんなにおかしいんです?」
「くくく……っ、いや、なんでも……あははっ」
「ええ……?」
暫く笑っていると段々笑いが落ち着いてきたので、目尻から滲み出した涙を指で拭いつつ、俺のコートを腕に抱えたままの朝陽の背中をポンと叩く。
「ふふ……っ、分かったよ。さっさと行こうな」
「はい!」
ブンブン尻尾を振る姿が見えるような爽やかないい返事に、再び笑いの波が俺を襲ってきたのだった。
◇
朝陽は俺が和食好きだというのをよく理解しているらしい。
「夜はしっかりお米食べましょうね!」と言うと、次に俺が来た時に作ろうと練習に仕込んでおいたという豚の味噌漬けの定食風をサッと作ってくれた。アルファって料理も完璧なのか。俺に勝てる要素が何ひとつない気がする。あ、年齢だけは常に上だ。
ダイニングテーブルに向かい合わせに座った朝陽が、俺がおかずを口に運ぶのをじっと観察している。非常に食べにくい。
口に入れる前に、朝陽に言う。
「お前もちゃんと食べろよ」
「食べます。でも誉さんが最初のひと口を食べた直後の表情をちゃんと見たいんです」
なんだそれは。
だけど、仕事だと素直に言うことを聞く朝陽が、俺に関することだけは自分のしたいようにかなり強引に事を運ぶのは段々理解してきている。まあ見られて減るもんでもないしな、とさっさと切り替えて口に含んだ。
味噌の甘みと苦みが口の中に広がっていく。肉は何をどうやったのか、分厚いのに硬くない。かといって柔らか過ぎる訳でもない、絶妙な柔らかさ。
「ん! 美味いよ」
俺の表情の変化を目を凝らして見ていた朝陽が、ホッとした笑顔になった。そんなに俺の評価が気になったのかと思うと、わんこ級の健気さにどうしたって胸がキュンとしてしまう。
「ほら、お前も食べろって」
「あ、はい!」
朝陽が食べ始めたのを見て、「ああ、俺は今幸せかもしれない」とふいに思った。
安心できる存在と、穏やかに笑いながら気負うことなく過ごす食事の時間。そんなものがこの世にあることを、朝陽と出会うまで俺は知らなかった。
何故なら、親父との食事の時間は緊張の連続だったから。強く責められるようなことはなくとも、失敗したら短く駄目出しされる。母親は俺が失敗して親父に注意されても、庇うことはなかった。庇ったが最後、母親の育て方に問題があると指摘されるのが分かっていたからだ。
母親が自分のことで親父に謝る姿は、できることなら見たくない。だから俺は、常に崖の端ギリギリを歩いている緊張感を持ちながら食事をしていた。
それが、親父の死をきっかけに母親が家を売却し、俺はひとり暮らしを始め。
ひとりの食事は、緊張感はないけど人の気配もない。
このまま彼女もできず結婚もできないまま、俺はずっとひとりのこの無音の時間を過ごすんだろう。漠然とそう考えていたんだ。
それが、朝陽が入社してきてからというもの、ランチはいつも朝陽に誘われて一緒に食べ、夜も残業があれば朝陽も一緒に残っていたので、かなりの頻度で夜も二人で食べるようになっていた。
週末は相変わらずひとりだったけど、しょっちゅう朝陽から連絡がきていたから孤独は感じなかった。思い返せば、朝陽は土日もお構いなく気軽に電話をかけてきていた。職場の先輩と後輩の関係にしては、かなり近い距離感だと思う。
だけど俺は後輩に懐かれているのが嬉しかったから、ちっとも気にならなかった。考えてみたら、随分前から俺の食事は朝陽と共にあった。でも、あまりにも自然に俺の生活に入り込んできていたから、認識すらしていなかった。
そして今回、朝陽の家で年末年始の間ひたすら面倒を見てもらった結果。
昨夜久々にひとりで取った食事はあまりにも孤独で、無音でいるのが辛くなり音楽を流して誤魔化しながら食べた。朝陽が傍にいない時間は、あまりにも空虚に感じられた。
だから、余計に強く思ったのかもしれない。
「……なんかこういうの、いいな」
「え? どういうのです?」
「お前とこうして肩の力を抜いて食事ができること」
照れくさくなって小さく笑いかけると、何故か驚いた表情で朝陽が俺を見つめているじゃないか。
朝陽の瞳が、濡れていく。
「え!? どうした?」
思わずギョッとすると、朝陽が両手で顔を覆う。
「僕……っ、こんなに幸せでいいんでしょうか……!」
「は?」
こいつは一体何を言い出したんだ。
「お、おい?」
と、朝陽がバッと顔を上げた。端整な顔が興奮気味に赤らんでいるのが、どうしたって俺の目には可愛く映る。
「誉さんが僕の恋人になってくれて、僕と食事することがいいって言ってくれるなんて、僕、明日死ぬのかもしれません……!」
「こんなことで死ぬなよ」
「だって、それだけ僕にとっては夢みたいで!」
こんな平凡な俺と過ごすことにこんなにも感動する奴は、世界広しといえど朝陽しかいなそうだ。
あー可愛い。ヨシヨシしてやりたい。て、そもそも今日どこか様子がおかしかった朝陽をメンタル的にヨシヨシする為に家に来たんじゃないか。
だから、俺は両腕を伸ばしてみることにした。若干、いや大分「俺なにやってんの?」感は拭えなかったけど。でも朝陽なら俺を笑ったり否定したりしないのは、一緒にいる時間でもう知っているから。
「朝陽、ハグしてやろうか?」
それでもやっぱり何故かちょっと上からな言い方になってしまうのは、俺がまだ心から今の状況を甘受できていないからなのかもしれない。だって、相手はこのアルファな朝陽だぞ? 片やどノーマルなベータの俺で本当にいいの? と今だってやっぱり思わずにはいられない。
朝陽が慌てた様子で立ち上がる。椅子がバタンッ! と後ろに倒れたのも構わず、俺の元に駆け寄る。
膝でスライディングしながら俺の腕の中に飛び込むと、俺の両頬を大きな手で包み込み――。
「ん……っ」
噛みつくようなキスをしてきたのだった。
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