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34 愛の逃避行
その夜、俺は泣いて泣いて泣きまくって一睡もしないまま、朝を迎えた。
瞼が腫れて酷い顔だけど、瀧のOJTは俺だ。瀧に好意的な安西は、今週出張に出ていて不在。アルファに劣等感を抱きがちな第三営業部内に、残念ながら他に任せられる奴は見当たらない。這ってでも行くしかなかった。
なに、ちょっと泣ける映画を観たとでも言えば、ほわほわした瀧なら信じてくれるだろう。とは考えつつも、なるべく誰にも顔を見られたくなくて、朝一番に出社した。
執務エリアに差し込む朝日は、徹夜明けの目にはやけに眩しく感じられる。頬をひとつ叩いて気合いを入れると、パソコンを立ち上げた。
プログラムを立ち上げるまでの間ぼんやりしていると、どうしたって考えてしまうのは昨日のこと。
俺はひと晩、泣きながらも考え続けた。どうして朝陽の態度が急変してしまったのかの理由を。
考えて考えて、結論に達した。結局のところ、アルファにはオメガだったんだと。俺が送っていけと言った夜、朝陽はオメガのフェロモンに惹かれて福山結弦と結ばれてしまったんだろう。
朝陽は真面目な男だから、責任を取るつもりなんだろうな。なんせ相手はれっきとしたオメガで、俺みたいなどこにでもいる奴じゃないから。
オメガに比べたら、ベータな男の俺の価値はやっぱりその辺の石ころ程度だったってことだ。
優しさに飢えていた朝陽は、俺に対する想いを恋だと勘違いしていたことに昨日ようやく気付いたんだろう。
だけどやっぱり生真面目だから、俺をポイと捨てることはできなくて、ああやって頭をきちんと下げて元の先輩後輩に戻ろうとした。
俺の心だけ、置き去りにして。
そう結論付けた。
今となれば、俺が朝陽に対し恋心を自覚したことを知られる前でよかったと思う。そうでなければ、朝陽は俺と先輩後輩の仲にすら戻ろうとしなかっただろうな。
「……未練たらたらだな」
俺に興味を失った朝陽からしたら、今後は俺と関わっても気不味いだけだろう。
これ以上、嫌われたくない。だったらもう関わらないのがベストだとは思う。
だけど、同じフロアで働いている以上、お互いの姿を見かけることはある。
「無理……」
――転職しようかな。どうせ俺には故郷なんてないし。身ひとつで、誰も知らない所に行こうか。
「瀧が独り立ちしたら、それもいいかもな……」
見なければ、気にならなくなる筈だ。反対に言えば、ここに居続ける限りはずっと気になってしまう。
「……なんの地獄だよ……」
首を横に振ると、淡々とメールチェックを始めた。
でも気が付けば、何度も同じ場所を読んでいる。瞼の裏に浮かぶ光景は、朝陽が福山結弦にキスをしている場面。
俺の前で、キスをした。俺の、前で……。
ぐしゃ、と前髪を掴んで握り締める。襟足の髪の毛を伸ばす気分になんて到底なれなくて、クルクルのままだ。
「あー、もう考えたくない……」
朝陽の顔を思い浮かべるだけで、勝手に涙が滲んでくる。こんなんじゃ本当に駄目だ。
エネドリでもがぶ飲みして、気合いを入れ直そう。
のそりと立ち上がり、自販機があるエレベーターホールに向かう。エネドリを一本買うと、その場で一気に飲み干した。
「炭酸きっつ」
でも、まだ頭がシャッキリしてない。もう一本購入した。取ろうとしゃがんだ瞬間、くらりと立ちくらみに襲われる。
「お……っ」
その場で膝を突いた。とその時、背後から焦った声がする。
「――ほまちゃん先輩!? どうしたんすか!」
「あ……」
振り返ると、焦り顔の瀧がすぐ後ろにいた。視界がぐらつき身体が揺れると、慌てて俺の身体を支える。
「高井呼びましょっか!」
「いや、絶対呼ぶな……」
離れようと、瀧の胸を押した。でも、瀧は俺がぐらついたかと思ったのか、逆に強く抱き寄せる。
「え、でもこれ、俺が助けたら滅茶苦茶怒られるやつっすよ! 今のこの状態だって、」
「……もう、怒られない、から」
言った直後、またもや涙が溢れ出た。
瀧が、驚きに垂れ目を見開く。
「え……? ほまちゃん先輩……?」
「ごめ、あの、立たせてくれたら後は歩くから、ちょっと手伝ってくれたら、」
やばい、油断した。もう散々泣いたのに、これじゃ親父の言うところの公私混同、社会人失格だ。
「――怒られないなら、こうするだけっす」
「えっ」
瀧が言った後、ふわりと横抱きに抱き上げてしまった。細めな癖に、さすがはアルファ。筋力からしてベータと違うんだろうな、とこんな時だというのに感心してしまう。
目眩に耐えながら、首を横に振った。
「あの、本当に大丈夫だから。下ろし、」
瀧が、ずい、と顔を近付ける。初めて見る真剣な表情に、言葉が途中で止まった。
「全然大丈夫な顔してないっす。何があったか知らないすけど、そんな顔したほまちゃん先輩を放っておけないんで。とりあえず席まで戻りましょ」
「わ、悪いな……」
正直、真っ直ぐ歩ける自信がなかったのは確かだ。
「ごめん、瀧……」
「無理して喋らなくていいっす」
「……ん」
瀧はスタスタと第三営業部に向かうと、俺の席に俺を座らせた。俺の前髪をさらりと掻き上げ横に流すと、へらりと笑いかける。
「ほまちゃん先輩、有給余りまくりっすよね?」
「え? あ、ああ、まあそうだけど……」
瀧は自分のパソコンの電源を入れると、早速会社のオンライン勤怠システムを開いた。一瞬の間に、今日の有給申請をしてしまう。後は部長が承認すればいい状態だ。
「ほまちゃん先輩のも開きますよー」
「え?」
瀧は俺のパソコンを自分の方に向けると、人のロック画面にカチャカチャとパスワードを入力していく。
「おい? お前なんで俺のパスワード……」
何故ロックが解除された!? おーい!?
しれっと答えられる。
「隣で見てたんで」
「嘘だろ……」
開いていたプログラムを、勝手に見ていく瀧。
「はっや。もうメール読んだんすか? 仕事し過ぎっすよ」と言いながら、メールアプリを勝手に閉じた。
「ちょ、」
次いで、人のオンライン勤怠システムを立ち上げ、有給申請してしまう。
そのままさくさくプログラムを落としていくと、パソコンを落とし、パタンと閉じた。
「は……?」
アルファはあれか? 人のパソコンを勝手に落とす習性でもあるのか?
ポカンと滝を見つめていると、瀧がもう一度俺の髪をくしゃりと撫でた。
「そんな辛そうな顔で、平気なふりして仕事して欲しくないっすから。さ、行きましょ」
瀧はコートを取ってくると、俺の肩にかける。瀧が首に巻いていたマフラーを、俺の頭から前にかけてぐるぐる巻きつけていった。な、なんだなんだ?
「その顔、高井に見せたくないっす。今俺、腹立ってるんで。あ、ほまちゃん先輩には怒ってないすからね?」
「お、おう……?」
瀧に腰を掴まれて、半分抱え上げられながらエレベーターホールに向かう。すぐに上がってきたエレベーターに乗り込むと、「寄りかかっていいっすよ」と正面から俺を腕の中に収めた。
とん、とん、と穏やかなリズムで背中を叩かれる。温かくてまたもや涙が滲んできてしまい、悪いとは思いながらも瀧のコートに瞼を押し付けた。
――なにやってんだろ、俺。後輩に心配させてさ。
チン、とエレベーターが一階に到着する。
「ほまちゃん先輩、歩けるすか?」
「だ、大丈夫」
顔を上げた瞬間、くらりと後ろにひっくり返りそうになった。
「おっと」と瀧が俺の身体を引き寄せ、「遠慮もやり過ぎると駄目っすよ」と言うと、再び横抱きにする。
「顔、隠して」
「あ、はい」
顔が見えなきゃ、俺からも誰も見えないと気付き、瀧の胸に顔を埋めた。
すると、歩き始めた滝に「瀧? どうした? それ誰だ?」と声をかける人物がある。瀧は明るい大声で答えた。
「あ、部長おはよーございます!」
まさかの部長だった。
「安田さん体調不良でこの通りなんで、俺と安田さんの有給申請したんで承認よろしくっす!」
「お? わ、分かった」
明らかに戸惑う部長の声。そりゃそうだろう。
「俺、安田さんを家まで送りますんで! じゃ!」
「お、おう……?」
瀧の勢いに押されたのか、部長は疑問系で答えた。
すると今度は、高めの今一番聞きたくない声が瀧に話しかけてくる。よく声を掛けられる奴だな。
「瀧さーん! その人どうしたの? ねえ朝陽さん、誰か分かるー?」
「……瀧……」
福山結弦と、朝陽の声だった。
絶対、顔を見られたくない。瀧のコートの前身頃をぎゅっと掴むと、瀧が耳元で「状況、掴めたっす。大丈夫っすよ、そのまま隠れてて」と囁かれる。
瀧は歩みを止めることなく、二人に向かって言った。
「愛の逃避行かな!」
「――は?」
「あはっ、何それ。笑えるー」
呆れたような二人の声を尻目に、瀧は何を思ったか、俺の頭の上に唇を押し当てる。
「そもそもあんたたちに関係ないよな。じゃ!」
「えっ、なにその言い方――」
最後まで聞く前に瀧が外に出たのが、空気の冷たさで分かった。
瀧が、すり、と俺の頭に頬を擦り付ける。
「……ほまちゃん先輩、泣かないで」
「……ぐず、う……っ」
自分の情けなさに嫌気を感じつつも、涙を止めることはどうしてもできなかった。
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