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35 誉の家へ
瀧は俺ごとタクシーに乗り込むと、人を抱っこ状態にしたままずっと背中を撫で続けた。
「行き先、ほまちゃん先輩の家でいいすか?」
「ん……」
住所を瀧に伝えると、瀧が運転手に伝言してタクシーが発進する。
ほわりと瀧が笑う。
「ほまちゃん先輩の家、楽しみっす」
「……何もないよ」
マジで何もない。なんの変哲もないただの独身男の家でしかない。
それでも、瀧はどことなく嬉しそうだ。
「家ってその人を表すって言うじゃないすか。俺の予想と合ってるか、答え合わせするの好きなんす。あ、床さえ見えてれば、汚くても許容範囲っすよ?」
「別に汚くはないよ。先週末、朝陽が来る予定だったから綺麗にしてたし……結局来なかったけど」
これまで誰も入れたことのなかった、俺の家。最初に入れるのは朝陽だと信じて疑ってなかった。
気付いた途端、また嗚咽が始まる。
「う……グス」
鼻を啜ると、瀧が頬に垂れた涙を親指の腹で拭った。
「あーもう、ほまちゃん先輩……よしよし。話聞くっすよ。支離滅裂でも頭ん中で組み立てるんで、吐き出して」
「瀧……っ」
考えてみたら、ここまで面倒をかけていて、何も伝えないのは不誠実だろう。また泣けてくるのは嫌だったけど、道中、ぽつりぽつりと、これまでのことや昨日あった出来事を話していった。
涙が止まらなくなってしまい瞼を拭うと、瀧が「擦っちゃ駄目っすよ」と言ってはハンドタオルでぽんぽんと拭いてくれる。
「瀧、優しいんだな……」
意外に思い感想を述べると、「ほまちゃん先輩は特別っす。愛してやまない大事な先輩っすから」と返された。本当かよ。さっきの「愛の逃避行」発言といい、言葉の重みが色々なさすぎて、涙混じりにだけど、ようやく笑うことができた。
家に到着すると、再び抱き抱えられながら部屋に連れて行かれる。中に入ると「綺麗っすね」と言った後、畳む気力がなくてそのままになっていた布団の上に俺を下ろした。
また、俺の前髪を大きな手でさらりと横に流す。……髪の毛、セットし忘れたから落ちてきて気になるんだろうか。緩そうに見えるけど、案外細かい性格なのかもしれない。
鞄を隅に置いたり自分のコートを脱いだ瀧が俺の前に戻ってくると、膝を突いて小首を傾げた。
「……こっからはプライベートってことで、タメ口でもいっすか?」
「え? あ、ああ」
瀧は整った甘めの顔で微笑むと、座り込んでいる俺のスーツのボタンに手を伸ばす。
「やったー。敬語、マジで苦手なんすよ。じゃあタメ口で。――ほまちゃん先輩、スーツ脱ごうな。皺になる。部屋着これ?」
「あ、はい」
突然ガラリと変わった口調に、ギョッとして滝を見つめ返す。
瀧は俺のシャツのボタンも外しながら、くしゃりとした笑みを浮かべた。
「くはっ。なんでほまちゃん先輩が敬語になるんだよ。やっぱあんた、面白いな」
「お、面白い……?」
これまでの二十六年間、面白味のある人間と評されたことは一度たりとない。瀧は俺の何を見て面白いと言ってるのか。
瀧はスーツ一式を剥ぎ取ると、ハンガーに掛けて形を整えていく。手早い。
「さっきの話で、大体状況は理解したよ。要は、グイグイ来られて絆されて好きだと思った途端、後からきたゆづくんに掻っ攫われたってことだろ」
身も蓋もないまとめ方だけど、何ひとつ間違ってないので素直に頷いた。
「んなの、全面的に高井が悪いじゃん。ほまちゃん先輩を泣かしてんのに、さっきも腕にゆづくんくっつけて出社なんて舐め腐ってんな、アイツ」
……一緒にいるからそうかなとは思ったけど、やっぱり俺に見られるかもしれない場所で堂々といちゃついてたのか。愕然とした。以前の朝陽からは考えられない行動だったから。
「朝陽……変わっちゃったなあ……」
瞳を潤ませながら、ぽつりと呟く。どんな表情をしていいか分からなくなって小さく笑うと、瀧が俺の頭に手を乗せてきた。
「ほまちゃん先輩には酷な言い方かもだけど、アルファが番と決めたオメガの前では、他の人間は霞んじまうって言うからなあ」
「……そっか」
そんな気はしていたけど、やっぱりそうなのか。朝陽の中での俺の優先順位が下がったってことなんだろう。
瀧は、俺の頭を優しく撫で続ける。
「それにさ、高井は元々はほまちゃん先輩にはよく見られたくて、猫被ってたんじゃね? だってあいつ、いつもアルファのお手本みたいな態度しか見せなかったし。俺はあれ、相当胡散臭いって思ってたけど」
「アルファのお手本? なんだよそれ……わぷっ」
突然、頭から部屋着を被せられる。すぽんっと顔が出ると、瀧が首を傾げた。
「んー、なんていうか、作ってる感ていうの? 嘘っぽい感じ」
「そんなこと……だってアイツ、結構子供っぽいところあったし」
「じゃあほまちゃん先輩の前でだけ見せてたんだろうな。それも作戦だったかもだけど」
今度は俺が首を傾げる番だった。
「作戦?」
「そ。ほまちゃん先輩に可愛がってもらえる作戦。ほまちゃん先輩、根が真面目じゃん? だから合わせたんじゃないかって俺は見てるよ」
「合わせ……」
瀧に言われている間に、段々分からなくなってきてしまった。
でも、もし瀧の言う通り朝陽が俺が好む後輩を演じていたのなら、俺好みの可愛い後輩だったことも納得できる。
俺の嫌がることは、何ひとつしてこなかった朝陽。考えてみりゃ、朝陽は優秀なアルファだ。俺みたいな単純なベータの心理を読んで合わせるなんて、朝飯前だったのかもしれない。
気付いた瞬間、また涙が溢れてきた。
瀧が、眉を八の字にさせる。
「ごめん……いきなり酷いこと言った」
首を横に振ることで答える。と、突然俺を掛け布団で包むと、俺を抱き上げ瀧の胡座の上に乗せてしまったじゃないか。
「え、あの、瀧っ?」
「ほまちゃん先輩、俺こうしてるから寝よ? ほまちゃん先輩が起きるまで、絶対ずっとこうしてるから。約束する」
「で、でも」
瀧が、憐れむような眼差しを向ける。
「ほまちゃん先輩、何にも悪くないじゃん。可哀想で見てらんない。だから、ね? 頼む、一旦寝て」
「瀧……」
瀧が心配してくれてるのは、痛いほど伝わってきていた。瀧自身も、福山結弦に振り回された口だ。思うところは色々とあるんだろう。
……同情でもいい。誰かに抱き締めてもらいたかったのは、間違いなく事実だったから。
でも。
「寝られるかな……。昨日も結局、寝ようと思ってたけど目が冴えちゃってさ。さっきもエナドリ飲んだし」
だからこんなことまでお前がする必要はない、と続けるつもりだった。
――瀧の唇が、俺の瞼に押し当てられるまでは。
「は……」
ゆっくりと唇を離すと、少しばかり照れ臭そうな笑顔の瀧が言った。
「涙が止まるおまじない。涙が止まったら、寝られるよ」
「はは……本当かよ」
ぎゅ、と俺を引き寄せ俺の頭に口をあてる瀧。
「ん、本当。ほまちゃん先輩の涙、止まったじゃん」
「これは――驚いたからで、」
「イェーイおまじない成功?」
「お前なあ……はは」
瀧が、俺を芋虫みたいに抱き抱えたまま、前後に揺れる。
温かい。凍えそうになっていた心が、じわじわと解凍されていくのが分かった。
慰め合い。そんな単語が思い浮かぶ。と同時に、「それの何がいけないんだ」という考えが湧いてくる。
「寝て、ほまちゃん先輩。俺はいなくならないから」
「……ん」
抵抗する気力すらなくなり、瀧の優しさに身を委ねて瞼を閉じる。と、身体は休息を欲していたんだろう。急激に力が抜けていく。
だから、聞こえたと思った言葉が本当に聞いたものだったかは、定かじゃない。
「……んだよ、じゃあ人に威嚇フェロモン向けるんじゃねえっつーの」
ん? 威嚇フェロモンてなんだろ――?
俺の疑問は、ようやく訪れた優しい眠りの中に溶けていったのだった。
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