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36 朝陽のいない日常へ
約束した通り、瀧は俺が目を覚ますまでずっと同じ体勢で抱っこしてくれていた。
その時間、なんと六時間。
「瀧、ごめん……っ」
「くう……っ! ほまちゃん先輩、今そこ動くとヤバいから……、ぐうっ!」
意外過ぎるほど律儀だった瀧は、足が痺れても俺が起きるまで待ち続けた。いや、そこは下ろせよ。
涙目で悶絶しながら、俺の布団の上で転がる瀧の垂れ目を見ていたら、自然と笑いが漏れ出す。
「ふ……ふふ、く……あははっ、馬鹿、何やってんだよっ」
なのに瀧は、そんな俺を見て安心したように微笑んだ。
「ほまちゃん先輩、よく寝られたみたいだね。よかった。睡眠不足って、嫌な考えを増長させちゃうから本当よくないからさ」
「瀧……」
寝転がった瀧が、俺を手招きする。なんだと思い四つん這いで近付くと、瀧の長い腕が伸びてきて、親指の腹で俺の瞼をフニフニと軽く押した。
「でも、瞼が腫れちゃってんな。今日は外出禁止。腫れが引いて、それからもう泣かなくなるまで、当分面倒みさせて」
「は? いやでも、」
俺の失恋で会社を休ませてしまった上に、ドロドロの失恋話まで聞かせてしまって更に面倒までみさせるなんて、いくらなんでもやってもらい過ぎだ。それに「当分」ってなんだ?
瀧が、突然俺の手首を掴んで引っ張った。
「わっ」
被ったままの布団ごと仰向けの瀧の上に倒れ込むと、滝が「捕まえた!」と手足で俺を拘束する。ぎゅうぎゅうに抱き締められ、耳元で囁かれた。
「俺はまだ恋に落ちる一歩手前だったし元々男はなーだったからダメージは少なかったけど、ほまちゃん先輩は性癖を強引に捻じ曲げられた上でこれだぞ。どう考えたってダメージでかすぎだろ。放っておけない」
「いやだって、職場の後輩にそんなことをさせる訳には……」
すると、滝が珍しくムッとした表情に変わる。
「プライベートの時間だっつったろ。だから敬語やめたんだぞ?」
「でもお前だってほまちゃん先輩って呼んでるだろ」
その呼び方はどうかと思うが。
すると、瀧がパッと顔を輝かした。
「じゃあ呼び方変える! 今から誉って呼ぶな!」
「おい、いきなり呼び捨てかい」
思わずツッコむと、瀧がキシシ、と歯を見せて笑う。
「いーじゃん、誉。あ、俺のことは恋慈 って呼んでいいよ?」
「いや、朝陽……ええと、高井で反省した。俺は器用に状況次第で呼び方は変えられない」
えー、俺の名前、愛がたっぷりな感じでいいのになあ、と滝が不貞腐れた。確かに恋を慈しむとは、なかなかな名前だ。でも、人のことが放っておけない瀧には似合っていると思う。
「ていうか誉さ、アルファの庇護欲の強さ舐めてない?」
「庇護欲?」
一体何の話だ、と首を傾げると。
目を細めて、瀧が何故か嬉しそうに言った。
「そ、庇護欲。一旦懐に入れた物は、全力で守りたくてしょうがなくなるんだよね。俺はアルファのプライドなんてとっくに捨ててるけど、この欲求を抑えるのは、多分他のアルファよりも欲求が強いから普通に辛い」
「はあ……?」
「その顔、分かってないな? 誉が俺のことをハズレなんかじゃないって言ってくれた時から、俺の中で誉は味方、つまり庇護対象になったんだからな? 所謂仲間意識だと思ってくれりゃいいよ」
「お、おう……?」
ハズレなんかじゃないとは、確かに言った。言ったけど、それでどうしてそれが庇護対象になるんだ? 俺の方が先輩なんだから、立場的に瀧を守ってやらないといけないのは俺の方だと思うんだが。
瀧が、くしゃりと笑うと俺の鼻を摘んできた。
「ま、いーや。とにかく、あんたに元気が出るまでいるから。今夜泊まるからな。何食いたい? デリバリー取っちゃう?」
すでに泊まることが決定していることが凄い。まずは家主の許可を取ってくれよ。
「え、でも、着替えとかサイズ違うし」
「パンツと肌着と靴下なんて、その辺で売ってんだろ。俺、この辺も大学時代の引越し屋のバイトで何度も来てるから、土地勘あるし後でサッと買いに行く」
土地勘の話はしてない。
「て、お前バイトしてたって引っ越し屋のバイトだったの?」
「うん。アルファって多少食ってなくても体力保つし、日給よかったし。うっす系の敬語も、バイトで染み付いちゃってなかなか抜けないんだよね」
「なるほどなあ」
所謂体育会系の言葉遣いと瀧の関係がいまいち繋がらなかったけど、そういう理由なら納得だった。
瀧が、俺の前髪をやっぱり耳にかける。
「あ、誉笑った。笑った顔の方がいいよ」
思わず苦笑した。
「あのな、お前、誰にでもそういうこと言ってんの? あちこちに勘違いしてる奴いるんじゃないのか」
俺の言葉に、瀧がにへらと笑った。
「誉が惚れてくれるなら、男でも満更じゃないかな?」
「言ってろ」
「アタッ」
ビシッと手刀をおでこに軽く叩きつけると、滝は実に楽しそうに破顔したのだった。
◇
瀧は、本当に俺の家で寝泊まりし始めた。
最初は、他人を家に泊まらせるなんてと抵抗があったことは否めない。だけど瀧は実際はかなり気遣いの人で、俺に居心地の悪さを感じさせないよう心を砕いているのが端々から感じ取れた。俺と一緒で、人の顔色をよく見ているってやつだ。
勿論、うちに宿泊することを決めた時のような強引さは、時折は見せた。だけどそれも、本を正せば全部俺への気遣いからだ。正直、誰か安心できる相手が隣にいてくれることを心の奥底では望んでいた俺は、申し訳ないなと思いながらも瀧の優しさにどっぷりと甘えていた。
それに、そもそも瀧は男は恋愛対象外だった男だ。色恋沙汰に発展する心配がないのは、傷心の俺にはとても気楽に思えたんだ。
ふとした空虚の瞬間、朝陽の顔が脳裏を過ぎる。途端に胸が苦しくなり涙を滲ませていると、いつの間にか傍に来た瀧が子供をあやすように柔らかく抱き締めてくれた。
瀧は、「会社にいる間は余計なこと考えられないくらい話しかけるから」と言い、実際にそれを実践してくれていた。もう職場では二度と涙を流したくなった俺にとって、非常に有難い申し出だ。感謝しかない。
会社に行くと、朝陽と朝陽にくっついている福山結弦とすれ違いそうになることも度々あった。だけどその度に、瀧が俺を抱き寄せ進路変更してくれた。お陰で、不用意に近付くこともなくあっという間に半月が過ぎていく。
だけど不思議だったのは、エンカウントしそうになる度に瀧が口許を楽しそうに歪めていたことだった。
「なんで笑ってんだ?」
瀧の陰に隠れながら歩いていると、時折小さな笑いも洩れてくることがあった。仰ぎ見ると、瀧が悪そうな顔で笑っているパターンだ。
俺の視線に気付くと、へら、といつもの柔らかい笑顔に戻る。
「え? 笑ってた? じゃあザマーミロって気持ちが顔に出ちゃってたのかな」
「ザマーミロ? 何を根拠に」
「あ、いや、こっちの話」
はぐらかされることも多かったけど、瀧のおかげであの日以降職場で泣かずに済んでいるから、マジで感謝しかない。
なお、瀧は仕事の覚えが非常に早かった。さすがは第一営業部で鍛えられただけのことはある。性格はあまりアルファっぽくはないけど、瀧だって立派なアルファだ。元々のポテンシャルの違いを見せつけられた気がした。
そもそも、手元だけ見て俺のパスワードを記憶していたくらいの頭脳の持ち主だ。俺が教えられることなんて、もうないんじゃないか。それくらい、何もかも優秀だった。
廊下を、二人並んで歩く。瀧は書類をパラパラとめくりながら、呆れ口調でぼやいた。
「にしても、どーして誉が当たり前のようにこの仕事振られてんの?」
「いやあ……なんかそういう星の元に生まれてんのかもしれない」
肩を竦めながら答えると、瀧が人差し指で俺のおでこを小突いた。
「馬鹿なこと言ってないでさ。これ、仕事を調整していかないとかなり時間取られるぞ」
「う……っ、瀧、頼りにしてる」
「承り〜」
そう。俺たちは今、三月に開催される新卒採用向けの企業説明会についての全体説明を受けてきたばかりだった。
第三営業部からは、昨年はスキップされたものの、一昨年に引き続き今年も俺が名指しで選出されている。事前確認は一切なく、突然会議招集が来た。部長には、「あー、人事から誰か回せって言われて、お前なら引き受けるだろって言ったんだった。悪い悪い」と言われた。いや、そこはちゃんと伝えて欲しい。切実に。
だが、今年は優秀な助っ人がいる。勿論、OJTを受けている瀧のことだ。
「にしても、もうあれから二年かー。一昨年は右も左も分からなくてバタバタしたけど、今年はもう少し落ち着いてやれるといいなあ」
「一昨年ってどんな感じだったの?」
「んー、俺は会場の見回りとか迷子になる学生の対応とかがメインだったんだけどさ――」
一昨年の会社説明会の様子を、思い出した。
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