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37 企業説明会
毎年三月に開催される学生向けの企業説明会には、多くの学生がやってくる。
会場は、社屋に隣接する体育館だ。会社内の部活やレクリエーション、時には展示会や創業記念パーティーの時にも使われる多目的ホールとして利用されている。
説明会当日は一度に何百人も学生がやってくるから、人事だけじゃ回らない。そんな訳で、例年各部署から人が駆り出され、受付や見回りや誘導やらに割り振られていた。
「毎年部署内で持ち回りでやるんだけど、これが結構大変でさ」
「いや、短期間で二回もやってんじゃん。誉さ、持ち回りの意味分かってる?」
すかさず瀧に突っ込まれる。そりゃ俺だって分かってるさ。だけど、事なかれ主義の俺が部長の采配ですでに決定してしまった割り振りに文句を言える筈がないだろ?
「まあなあ。あはは」
誤魔化すように笑うと、瀧に大仰な溜息を吐かれた。
「……はあー」
そんな可哀想な子を見るような目で俺を見るな。
「……毎年、社歴が浅い社員に割り振られるんだよ。だけど今年はほら……」
なんと伝えたらいいものか。言い淀んでいると、瀧が俺の頭の上に大きな手をぽんと乗せた。
「高井に振る筈が部署異動しちゃったから、移動してきたばっかの俺に振れなくて誉に回ってきたんだろ。分かってるよ」
俺の頭を手の置き場にしている瀧を、ジト目で見る。
「……分かってんなら聞くな」
「笑って誤魔化そうとする誉に腹が立ったんだよ」
「……」
「誉は何も悪くないだろ。全部高井のせいなんだから、もっと怒れよ」
瀧は、事ある毎に俺に「もっと怒れ」と言ってきた。無理に呑み込まないで怒って発散しろと。
――でも、怒りに身を任せるのは己をコントロールできていない未熟者が取る行動だという親父の教えのせいで、俺は怒るという感情を素直に表に出せない。瀧にそう伝えたら、「自己中な怒りと理不尽に対する怒りは違うんだってば。あーもう、大分泣かなくなったけどまだ心配。宿泊延長する」と言われてしまった。
こんな時、朝陽の為に買った布団が役に立っているのが何だかなあと思う。だけど無駄な出費にならずに済んだと思うあたり、俺はひっくり返ったところで俺にしかなれないんだろう。
どう頑張ったってオメガにはなれないし、アルファの番にもなれない。貧乏性で自分の怒りを表に出すことすらできない弱小ベータが朝陽に好意を持たれていたこと自体が奇跡だったんだ、とようやく思えるようになった。瀧に伝えたら、「俺の庇護対象を馬鹿にすんなよ」と小突かれたけど。意味が分からない。
「……誉? 大丈夫?」
「あ」
またもや不毛な思考のループに陥りかけていたことに気付く。
「大丈夫! そういや一昨年、後半の企業説明会で具合が悪くなっちゃった子がいてさ」
唐突に話題を変えたことに、敏い瀧なら瞬時に気付いただろう。だけど瀧は、何も言わなかった。
「もうそろそろ説明会が始まるから、周辺に残ってる子がいないか見回りに行ったんだよ。そしたら、廊下で今にも倒れそうにふらつきながら歩いてる子がいてさ」
「へえ。女子?」
「いや、男。俺より背は高かったけど、ひょろひょろで猫背で目は前髪で隠れててさ。声を掛けたら物凄いビビられたんだけど、ずっと吐きそうな感じだったから、トイレに連れて行ったんだよ」
「ふーん? そんな奴、同期にいないなあ」
瀧が首を傾げながら言った。瀧の同期はそれなりの人数がいる筈だけど、記憶力のいい瀧のことだ。全員の名前と顔くらい暗記しているんだろう。
「最初の説明会だからな。うちに入社できなかったんだと思うよ」
「そんな陰キャみたいなのだとまず面接で落とされるよな」
「まあな、なかなか難しいとは思うよ。――でさ、『会場に行かないと』ってヨロヨロしながら向かおうとするから、休んだ方がいいって引き止めた瞬間……」
「え? なになに?」
瀧が興味津々といった眼差しで尋ねてきた。
「吐いた」
あれは、俺にとっても結構衝撃的な出来事だった。
「わお」
「幸い量はそれほどじゃなかったんだけど、その子のネクタイが汚れちゃってさ」
「その程度で良かったね」
「本当な」
頷きながら、続ける。
「でさ、その子が勇気を出して来たのにやっぱり自分は駄目なんだって泣いちゃって」
瀧が呆れたような横目で俺を見た。
「その後の展開、分かったかも。誉のことだから、甲斐甲斐しく面倒みてやったんだろ?」
「そりゃまあ、泣いてる子は放っておけないし」
「学生とはいえ相手は二十歳を過ぎた大人だけどな?」
「だってなあ」
瀧の言い分も分かる。だけど、あの子は本当に今にも折れそうに弱々しく見えて、手を伸ばさずにはいられなかったんだ。
「スーツにはちょっとしか付かなかったから拭き取れば大丈夫だったんだけど、ネクタイがもう完全にアウトでさ。でも、ネクタイしてない学生はうちの会社は特にアウトだろ?」
「カジュアルとか上層部嫌ってる感は感じる」
「昭和だしな。――で、俺はロッカーに替えがあったから、その時してたネクタイを貸した訳だ。少しくすんだ黄色のネクタイだったんだけど、手が震えちゃったその子の代わりに結んでやって、『幸運を呼ぶ黄色のネクタイだからこれで大丈夫!』なんて我ながら臭いことを言ってさ」
と、瀧が今度こそ呆れた眼差しで俺を見つめてきた。
「……そういうとこだよな、誉」
「え、何が?」
「いや……それで?」
なんだよと思いながらも、更に続ける。思い出したら、俺もちょっと笑顔になってきた。あれは結構嬉しかった出来事だったから。
「うん、だから大丈夫だ、一緒に会場まで言って説明もしてやるからって言ったら、『勇気が湧いてきました、ありがとうございます』って滅茶苦茶感謝されてさ。いやー、嬉しかったなあ」
「お人好しの塊だな」
「ん? そうそう、すごくいい子でさ。そのネクタイはお守りにやるって言ったら、いつかお礼に伺いますからって名刺を求められて。あの時に『後輩って可愛いな』って初めて思った」
「意味通じてないし。てゆーか入社してないんだったら後輩じゃねーだろ」
瀧の細かいツッコミは無視する。
「結局あれから二年経ってもお礼には来てないから社交辞令だったんだろうけど、なんかいいことした気分になれたし、悪くはなかったかな」
「なるほどねえ」
瀧に笑いかけた。
「だから、大変なのは分かってるけど、今年の企業説明会をやり切れたらもう悔いはないかなって思ってる」
と、瀧が突然俺の二の腕を掴んで引き寄せる。さっきまでの斜に構えた表情は消え、怪訝そうな顔になっていた。
「……ちょっと待てよ。それじゃまるで」
瀧の目を真っ直ぐ見つめながら、頷く。
「……瀧も四月からは独り立ちするだろ? だから、三月末退社が一番タイミングがいいかなって」
「――待てよ! なんだよそれ!」
瀧が声を荒げた。近くにいた人々が、なんだとばかりに俺らに注目する。なんでもないですよということを見せる為、瀧に大丈夫だと伝える為にも、できるだけ明るく見えるだろう笑みを浮かべた。
だから、お前が泣きそうな顔をする必要はないよ、瀧。
「……次のヒートで番になるって言ってたんだ。俺は番になった二人を見たくない」
「――ッ!」
朝陽のマンションで決別を言い渡されたあの日。確かに福山結弦は「次のヒートで番になったら」と言い、朝陽もそれを肯定していた。
アルファとオメガの間に、ベータが入る隙間はない。殴られるように突きつけられた、事実。
頭では、もう二度と朝陽と復縁など望めないと分かっている。そんな時、ふと考えてしまったんだ。この先俺はずっと、朝陽に番ができ、結婚して子供が生まれ、よき父親となって高みへと上っていく姿をただ見上げてないといけないのかと。
――どんな地獄だ。無理だ、と思った。
だけど、この会社の副社長の息子と番う以上、朝陽は半永久的にこの会社に縛り付けられることは想像に難くない。
「相手は副社長の息子だぞ。見たくなければ俺がいなくなるしかないだろ」
「誉……でもそれじゃ、」
何故か傷ついたような顔をしている瀧に、にっこり笑いかける。
「お前を途中で見放したりはしないよ。最終日までちゃんと隣にいるつもりだから。まあ、まだ辞表書いてないんだけど」
四六時中瀧が隣にいるので、書いている隙がどこにもなかった。だけどこれで、堂々と書くことができる。
「さ、戻ろう」
いつの間にか立ち止まっていた足を動かすと、掴まれていたままだった二の腕をグンッ! と引き寄せられた。
「ちょっ、ぶほっ」
ぎゅむ、と顔面がふわふわな瀧の胸筋に押し当てられる。苦しい。馬鹿力で羽交い締めにされてしまった。ちょ、ちょっと、いくら男同士とはいえここは会社だぞ!?
耳元で、泣きそうな瀧の声が呟く。
「嫌だ」
「ぶふっ」
「駄目だよ、絶対辞表なんて書かせない……。俺は誉ばっかり犠牲になるの、絶対に認めないから」
「んーっ!」
本気で苦しい。腕ごと抱き締められてしまったので、身動きすら取れない。必死で藻掻くと、辛うじてできた隙間から思い切り空気を吸い込む。俺がジタバタしてるのは分かってるだろうに、瀧はそれでも俺を離そうとはしなかった。
「駄目だから……っ」
寂しそうな声で言われて、俺は何も返すことができなかった。
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