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38 態度の変化
翌日には、瀧の熱い抱擁の相手が俺だと噂になってしまったらしい。
「瀧ちゃん、ちょっとちょっと、俺のほまちゃんとどういう関係!?」
「安西はまず黙れ、俺がいつお前のほまちゃんになった」
今日も椅子をスーッと蹴って俺と瀧の元へやってきた安西が、興奮気味で尋ねてきた。でも、安西のお陰で分かった。今日はやけに視線を感じると思ったら、そういうことか。
ふと視線を感じて目線を上げると、三十路後半腐女子社員と目が合った。深く頷かれた。俺は目を逸らした。視線の理由がこれで確定する。
呑気そうに、瀧が俺のデスクに肘を突きながらへらりと笑った。
「誉は俺の大事な人っすよ」
瀧は何をほざいてる。呆れ顔になると、安西が更に騒ぎ始めてしまった。
「はあっ!? え、ちょっとほまちゃんお前、どんだけ後輩キラーなの!? 高井に続き瀧ちゃんも手のひらで転がすなんて魔性過ぎるぞ! てゆーか呼び捨て! どれだけ急接近!?」
「おい、誰が魔性だ。瀧の冗談くらい分かれよ。瀧も瀧だぞ。職場で呼び捨てにするなよ」
二人を睨みつけると、安西はチャームポイントの八重歯をニッと見せ、瀧はケラケラと楽しそうに笑う。
「だって誉、からかうとすぐムキになるの可愛いもん」
「お前なあ」
瀧はあの後から、これまでよりも更に俺に絡んでくるようになってしまった。昨日までは友達ならありかな、の距離感だったのが、何と言うか……まるで恋の駆け引きをしているような甘ったるいからかいだらけになってしまったのだ。曲がりなりにも先輩について「可愛い」だの「大事な人」だの、こいつは一体急にどうしたんだ。
俺の冷たい目線にも、思わず許してしまいそうになる甘くて明るい笑顔で返す瀧。勘弁してほしい。俺は注目は集めたくないんだよ。俺を籠絡しようとするな。
「安西さん知りません? アルファってお気に入りに対する執着凄いんすよ。割と有名な話っすよね?」
「執着言うな」
瀧の二の腕を軽く叩くと、瀧が実に楽しそうに「あはっ」と笑った。完全にからかってるな、これ。本当に訳が分からない。
すると俺たちの様子をじゃれ合いだとでも思ったのか、安西がどことなく微笑ましげな表情をして、身体の前で腕を組む。
「いやーでも、高井がいきなり第一に、しかもあの美人に盗られてこっちに一切寄りつかなくなっちゃったじゃん?」
ギク、と思わず心臓が飛び上がったけど、安西は何も気付いてないようだった。突然朝陽の話をされると、日中は見ないようにしている穴がぽっかりと口を開けるからキツイ。
「あんなに懐いてたのに物凄い手のひら返しだったから、正直ほまちゃんが凹むんじゃないかってヒヤヒヤしてたんだよ。でも、明るい瀧がほまちゃんに懐いてくれたから俺は嬉しい」
うんうん、と安西は何度も頷いた。……そんな風に心配してくれてたのか。俺は自分のことばかりで、全然気付いてなかった。安西は仕事は全然しないけど、本当にいい奴なんだよな。
「ほら、ほまちゃんって淡白そうに見えて、実は情に厚い男だろ。可愛がってた犬が急に他に尻尾を振ったら淋しいじゃん」
そしてやっぱり朝陽は犬扱いか。そこは気が合うな、安西。
瀧が、感心したように言った。
「安西さんて実はいい人っすよね」
「実は、は余計じゃね?」
安西が顔をしかめると、丁度その時昼休みを告げるチャイムが鳴る。途端にパッと笑顔に戻った。
「飯だ!」
「お前今日仕事した?」
「午後から気合い入れるって!」
してないんかい。
するとそこへ、ひとりの先輩社員が安西に声をかけてくる。
「安西、ちょっとこの資料なんだよ! 午後一で使うのに、データが滅茶苦茶じゃないか」
「ええっ!? おっかしーなあ!」
逃げ体勢に入る安西を、先輩社員が捕まえにきた。
「サボってばっかいないで今すぐ直せ」
「えっ」
歌に出てくる子牛のような寂しそうな目をした安西が、先輩に引っ張られて消えていった。
瀧がにっこり笑う。
「誉、飯行こ」
「あ、いや、俺も仕事をもう少し……ひっ」
席に向き直りつつ横目で瀧を見た瞬間、身が竦んだ。
至近距離で、瀧が笑ってない満面の笑みで俺を見ていた。朝陽もそうだったが、文句なしの美形が温かみのない笑みを浮かべると、マジで怖い。
「あのな。こっちが気を使って無理強いしなかったら、そう言って今週何回昼飯抜いた? 自分が前より痩せた自覚あるか?」
こころなしか、声も低めだ。
「社食行くぞ」
「あ、はい」
有無を言わせない感満載だったので、俺は素直に頷いた。
俺は自他ともに認める争い事を嫌う人間なので、怒りを滲ませた人間には基本抵抗しない。
「逃げんなよ」
「逃げないってば」
「信用ならねえ」
ぶすっとした表情の瀧に手首をむんずと掴まれ、エレベーターホールまで引っ張って連れて行かれる。第一営業部の前を通る時、中を見ることができなかった。ここにいるんだと思うだけで、心臓が鷲掴みにされたように苦しくなる。
不機嫌そうなままの瀧と、二階にある社食に向かった。みんなチャイムと共に走ってでもいるのか、既に行列ができている。
列の最後尾に並ぶと、ボードに書かれたメニューを眺めた。洋食がメインだと思っていたけど、今日はとんかつ定食がある。でも、最近油っぽいものはちょっと胃が受け付けなくなっていた。どう考えたってメンタルから来てるのは分かってたけど、だからといってどうしようもない。
……それにしても、やっぱりあちこちから視線を感じるな。
原因は、今も掴まれたままの手首のせいもあるだろう。ちらりと周囲を見渡すと、みんなサッと目を逸らした。くそう。やっぱりこれじゃないか。
「瀧……あのさ、どこにも逃げないから手を離してくれ」
だけど瀧はそれを無視して、代わりに屈んで俺の耳に口を近付ける。近い。
「誉、ちゃんと食べろよ? 何がいい? 昨日の昼は蕎麦で、昨日の晩飯も一昨日の晩飯も焼き魚だったじゃん。そろそろ肉食った方がいいって」
「俺は和食好きなんだよ」
軽く睨んでも、こいつには全く効果がない。
「ここでうどんとか蕎麦頼んだら、罰として膝乗っけて俺のとんかつあーんで食わすぞ」
「やめてくれ、どんな地獄だよ」
「だったらちゃん量があるのを食え」
耳に息を吹きかけるな。忘れたいことを想像するじゃないか。
「く……っ、じゃ、じゃあ、ボロネーゼ……」
「ん。まあいいや。俺のとんかつひと切れノルマな」
「いやちょっと待て、揚げ物は本当に」
瀧が、意地悪そうににやりと笑う。
「とんかつひと切れかボロネーゼを膝の上であーんとどっちがいい?」
「くそ……っ!」
と、その時。後ろから、高めのはしゃぐ男の声が聞こえてきた。
「あっ、見て見てっ、噂の二人が社食に来てるよ、朝陽さん!」
――は? と反射的に振り返ると、やっぱりというか、朝陽に身体を押し付けながら腕に絡みついている福山結弦と、固い表情の朝陽がこちらに向かってくるところだった。
俺の手首を掴んでいる瀧の手に、力が込められる。
瀧は笑顔になると、俺を前に引っ張り俺を二人の視界から隠した。
前方のメニューボードを指差しながら、瀧がにこにこと話しかけてくる。
「誉、他のメニューもあるよ。ちゃんと見た?」
瀧は、俺を二人から匿ってくれてるんだ。瀧の心遣いが有り難くて、一瞬涙が出そうになった。
「みっ、見たけど、ピカタってなんだよ。俺には全く想像ができない」
最近の料理名は、本当にさっぱり分からないんだ。くすくす、と瀧が頭の上で小さく笑う。
「ピカタは豚肉を卵に付けて焼いたやつね。説明下に書いてあるじゃん」
「カタカナだらけじゃないか。俺はカタカナじゃない和食が」
「分かった分かった、夜は和食にするから」
すると、完全に無視された形になっていた福山結弦が、甘えたような口調で瀧に話しかけてきた。
「ちょっと瀧さん、僕のこと無視するなんて冷たあい。僕と瀧さんの仲じゃないの」
瀧が、笑顔を引っ込めると目を細めながら振り返った。
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