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40 決別
周囲の視線が突き刺さるのを感じながら、半ば無理やり昼食を掻っ込む。
「お前さ、視線が気にならないの?」
のんびり食事を楽しむ瀧に小声で尋ねた。瀧は周囲を興味なさげに見回す。
「んー? いつもこんなんだし。アルファは基本注目されるから、気にしてたら生活できないかな」
「そういうものなのか……」
集団に放り込まれたら埋もれる気しかしない平凡ベータの王道を行く俺からしたら、なんてストレスフルな状況だと思う。同情しながら返すと、瀧が「俺の心配しちゃって、誉可愛い~」と頭をぐしゃぐしゃにしてきた。おい。
大盛りご飯を頼んだ瀧が優雅にデザートまで食べ終わるのを待ち、心情的には半ば逃げるように第三営業部に戻る。と、苦々しげな顔をした部長に二人セットで呼ばれた。
会議室に入るなり、部長が頭を抱える。
「お前らなあ、三月末に辞めるってなんだよ……」
あ、やっぱりそれか。情報が早いなあと思いつつ、申し訳なさのあまり、顔を伏せた。
だがしかし、決めていた俺はともかく、流れで辞めると言ってしまった瀧までこのまま辞めさせる訳にはいかない。どう説明するかと考えながら、まずは頭を下げた。
「すみません。ちょっとした行き違いなんです」
瀧が、援護するように続ける。
「本当、申し訳ないっす。第一のオメガに、安田先輩に対する暴言を好き勝手に吐かれて、売り言葉で買い言葉でついポロッと」
「ついポロッと、じゃねえぞ? 俺あ辞表は受理しねえからな?」
部長が苦々しげに凄んだ。……いや、俺のは受理してほしい。瀧に阻止されてまだ書けてないけど。あ、でも人事に提出すればいけるのを俺は知っている。部長が駄目なら人事に行こう、そうしよう。
「でも『パパに言いつけてやる』って堂々と言ってたっすよー?」
瀧がへらりと笑う。この期に及んで笑える瀧は、さすがはアルファというべきか。それか、もしかしたらこいつ、全部こうなることも見越して大勢の人の前であんな発言をしたんじゃないか。
「いやー凄いこと言うなって感心しましたもん。自分中心に全てが回ってる人って、笑っちゃうほど周りが見えてないっすよね」
……俺の予想は、多分当たってるぞ。こいつ絶対、確信犯だ。
横目で見ると、瀧が目だけで笑い返してきた。ほらな。
部長がぶすくれた表情で返す。
「んな公私混同がまかり通るか、アホ」
瀧が、ケラケラと笑った。
「まあまかり通ったらヤバいっすよね、うちの会社。労基に訴えられても文句言えないレベルっすもんね!」
部長が背もたれに思い切りもたれかかり、天を仰ぐ。
「労基は勘弁してくれよ。上層部と全面戦争になるぞ? まあ俺は自分の部下の為なら戦うけどなあ」
そうすっとお前らより俺の首の方が危うくなるな、なんて部長がぼやいた。さすがは叩き上げで上ってきた部長だ。言うことが格好いい。実際に俺たちに本当に理不尽なことが起きたら躊躇いもせずそうすることが分かるだけに、俺はこの人を尊敬して止まない。
仕事は大抵無茶振りしてくるけど。
瀧がほんわかした笑顔のまま言う。
「報復されたら、それはそれでまたアウトっすよ。部長も労基一緒に行きます?」
「誘うなアホ。肩身が狭くなるってだけだ。肩身が狭くなったくらいで退職するほど俺のハートはノミじゃねえよ」
部長が肩を竦めると、はは、と瀧が笑い返した。
「ていうか、俺の人事異動も大分グレーっすよね。あのただ遊んでるオメガがいる限り、もう第一に戻りたくないすけど」
「やっぱり遊んでるだけか?」
やっぱりってことは、そういう噂がもう広まっているのか。俺のところに入ってこないのは――瀧が意図的に排除していたのかもしれない。でも一瞬、安西も似たようなものじゃないかと思った。あいつも相当仕事はしていない。
「っすね。最初は簡単な事務作業を教えようとしたんすけど、『どうして僕がこれをやらなくちゃいけないの?』と言われて早々に諦めたっす」
「……二の句が継げないってこういうことを言うんだな」
部長が遠い目になった。
あ、これ、安西の方が遥かにマシだった。一瞬でも思って悪かった、安西。
それよりも、俺はちゃんと言わなければならない。
姿勢を正すと、部長に正対する。
「部長。瀧は売り言葉に買い言葉でああ言いましたが、俺は元々三月末で退職しようと考えていました」
「は……?」
部長と瀧の視線が俺に集まる。
「四月からは瀧も独り立ちしますし、そもそも今だってもう殆ど教えることはありません。即戦力になると思いますので、俺が抜けた後の心配はいりませんから」
「いや待て、待て待て待て」
「ちょっ、誉!?」
部長と瀧が慌て出した。
でも、俺はもう決めていたんだ。
別れの日から今日まで、俺は朝陽と目を合わせることすらなかった。だけど今日朝陽の目を間近で見て、やっと思えた。
もう朝陽の中に、俺を慕う気持ちは残ってないと。
朝陽の目には、苛立ちしかなかった。あれを見て、これまで俺に向けられていた優しい眼差しはもう欠片も残ってないと、ようやく納得できた。腑に落ちるってこういうことを言うんだな、なんてどこか達観した気持ちでいる。
だけど、以前の朝陽が俺に与えてくれた慈しみまでは疑いたくはない。今は消えてしまったとしても、確かにあの時は存在していたのだと信じていたい。
楽しかった大型わんこ系後輩との思い出まで、なかったことにしたくなかった。
だけど、心変わりしてしまった朝陽を見続けていたら、いつか「あれは夢だったんじゃないか」と輝いていた思い出すら疑ってしまうかもしれない。
それだけは、絶対に嫌だった。
……それに、俺はやっぱりまだ朝陽を目で追いかけてしまう。俺の心が、朝陽を欲してしまう。
未練たらたらな俺を見て、朝陽が幻滅する顔を見たくない。
だから。
「瀧のこと、よろしくお願いします」
「安田……」
深々と頭を下げると、二人とも黙り込んだ。
◇
部長への退職宣言以降、瀧は俺の顔色を窺うような素振りを見せるようになった。
「誉、帰りにスーパー寄ろうよ」
「いや、いい」
「すき焼きにしようって昼に話しただろ? な、誉の好きな和食だぞ?」
瀧のサポートのお陰で、ここのところ残業は少ない。俺のところに仕事が舞い込む前に、瀧が引き受けたり突っ返したりしているせいもあった。
見た目はチャラい新卒だけど、瀧は俺よりも全然しっかりしている。だから俺もそろそろ、頼りっ放しのこの状態から離脱しないといけないと決意を新たにした。
俺を見る朝陽の温度のない目を正面から受けて、ようやく踏ん切りがついたんだ。
「――瀧」
自宅へ続く夜道。俺が足を止めると、不安そうな表情の瀧も足を止め、振り返る。
「お前さ、もう自分ちに帰れ」
「ま……っ」
目を見開く瀧に、真顔のまま伝えた。
「この半月、瀧がいてくれて本当に助かった。お前がいなかったら、俺はもっと酷い状態のまま今も未練がましく毎晩泣いてたと思う。ありがとう、瀧」
「誉……っ」
瀧は泣きそうな顔になると、首を横に振りながら俺の正面に立ちはだかる。俺の両肩を大きな手でがっしりと掴むと、訴えかけた。
「誉、俺は嫌だ……! そ、そうだ、俺さ、誉に言わないといけないことがあって。知っていて黙ってたの、悪いと思って」
知っていて黙ってた? 一体何の話だろう。
「何の件だ?」
瀧の目が泳ぐ。
「その、高井の匂いが、」
高井、と聞いた途端、俺の心の中でシャッターがピシャンと下りた。
「んー、それはもういいかな」
匂いがどうのこうのとは、アルファしか感じない何かしらの香りなんだろう。福山結弦も理解していなかった様子だったから、きっとそうだ。
でも――今後アルファとは関わらない道を俺は選ぶから。もう、いい。十分だ。
瀧に笑顔を向ける。
「瀧、ありがとう。お前の優しさは十分伝わった。それにこれから先俺に必要なのは、ひとりに慣れる時間なんだよ」
俺はもう一生、恋愛も結婚もするつもりはなかった。元々、女性とだって無理だったんだ。だからこれは、元の状態に戻っただけ。だったら、ひとりに戻ることに早く慣れなくちゃ駄目だ。
涙を滲ませながら、瀧が首を横に振り続ける。
「ちが……っ、俺、優しさなんかじゃないんだ! 最初異動を言い渡されて、『なんで高井ばっかり』って腐ってたところに高井が執着してる誉が俺の担当になって! 誉に気に入られたらあいつもちょっとは嫌な気持ちになるかなって邪 な気持ちで近付いた!」
「……うん、分かるよ。ハズレアルファなんて言われてすぐに異動させられたら、腹も立つよな」
瀧の俺への近付き方は、どう考えても急すぎた。いくらアルファのプライドなんかないと言ってはいても、あれだけの理不尽な扱いを受けた瀧が、素直にただのベータの俺にすぐ懐く方がおかしいんだ。
瀧が、ショックを受けた顔になった。
「誉……気付いてたのか?」
「グイグイくるからな、そりゃ分かるよ」
小さく笑うと、瀧が駄々っ子のように首を横に振る。
「誉、信じて……っ、今は違う、誉を家に送った時までは、確かにそうだったかもしれない。でも俺、誉と過ごすようになって誉にバレたら嫌われるかもって言えなくなって、」
ふは。こいつはこいつでわんこみたいだなあ。俺の周りは、可愛いわんこ系後輩ばかりだ。
瀧の頭を撫でる。
「馬鹿、嫌う訳ないだろ。お前には感謝してるって言ったのをもう忘れたのか? お前がどういう魂胆で近付いたかなんて関係なく、俺はお前の存在に救われた。本当だぞ?」
「誉……お人好し過ぎるよ……」
瀧の垂れ目から、大粒の涙がひと筋落ちていった。
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