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41 思い出したこと
その夜、瀧は荷物を大きなボストンバッグふたつにまとめると、後ろ髪を引かれる様子を見せながら俺の家から出ていった。
幾度も振り返る瀧の姿を見るのは忍びなかったけど、これはけじめだ。瀧には瀧の思惑があったとしても、今の状態が健全だとは言い難い。
別れ際、晩飯だけはちゃんと食べてほしいと泣きそうな顔で懇願された。瀧の姿が夜の住宅街に消えていったのを見送った後、ふらりと近所のスーパーに寄り、値下げされた弁当とビールを二本買う。
正直、飲みたいと思わなかった。だけど、半月もの間瀧と二十四時間一緒に過ごしてきたから、絶対ひとりの部屋は空虚に感じるのは最初から分かっていた。朝陽の時に感じた寂しさを再び味わうのが怖くて、だったら食って飲んでさっさと寝てしまおうと思ったのだ。
家に着いて早々、ビールのプルトップを開けて一気に半分を胃に流し込む。弱った胃にはビールのきつい炭酸はかなり効いたけど、今は逆にそれがよかった。
弁当を温めてから、食べ始める。
単身者用の部屋だ。俺ひとりでもむしろ狭いくらいの広さしかない。なのに、やけに広く感じる。
……気付いた。広さを感じるのは、俺以外の音がしなくなったからなんだと。
一本目のビールを空になるまで一気飲みする。
焼け付くような食道の存在を感じながら、弁当を掻っ込んだ。
◇
朝陽と福山結弦は、朝早くは出社してこない。
福山結弦も、朝陽と一緒に第一営業部部長の早朝ランニングに付き合っているんだろう。だからか、二人はいつも揃って出社していた。
いくら瀧がガードしてくれていても、噂話というのは無遠慮に大声で語られるものだ。当然、自然に俺の耳にも入ってきていた。
定時少し前に「夫婦で出勤」しているとも、朝陽が周りから「玉の輿アルファ」と言われていることも、俺はちゃんと知っていたんだ。
だから極力二人の仲睦まじい姿を視界に入れなくて済むよう、できるだけ早く出社していた。俺が早く出社することはよくあったから、「いつもそうしてる」と瀧に言えば、いつもが実は本当じゃないなんて疑われなかった。根気よく付き合ってくれた瀧には、感謝しかない。
朝陽と福山結弦の噂をしているみんなは、俺と目が合うと大体がサッと目を逸らした。通り過ぎると、後ろから聞こえるのは「折角育てたのに横取りされた上に手のひら返されて、可哀想だよな」という、俺を憐れむ言葉が殆ど。
「でも相手はオメガじゃん、ただのベータの先輩とじゃ比べようがないって」という言葉と共に。
ああ、俺はそんなに惨めに見えるんだ。その事実に、余計居た堪れなくなった。
瀧が言う通り、この半月で俺の体重は確かに落ちた。瀧に食わされたから激減まではいってないけど、周りが騒ぎ立てるのは、俺がやつれたように見えていたせいもあるかもしれない。
でもさ。
俺が事なかれ主義で反論しないからといって、噂の的になっても平気な訳じゃない。周囲から否応なしに聞こえてくる憐れみの声も、俺の辞めたいという気持ちを後押しした要因のひとつだった。
早朝に出勤すれば、第三営業部の扉は大体開いていない。それを知る俺は、今日も誰よりも早く出社した。これは、俺が退社するその日まで続けようと思っている。
だけど、今日は一番じゃなかった。
先客がいたのだ。
「――瀧」
「おはよ、誉」
目を充血させた瀧が、弱々しく笑いかける。まさかいると思わなくて足を止めたけど、気を取り直して自分の席に向かう。
瀧は椅子の背もたれに寄りかかりながら、じっと俺の動きを観察するように目で追ってきた。
「……早いな。俺が早く来るからって、もう合わせる必要はないんだぞ」
「違うよ。いや、違わないか。誉に会いたかったから、早く来ちゃった」
またこいつは、反応しづらいことを。
「ちゃんと寝られた?」
赤い目をしておいて聞くことか。
「俺は酒を飲んだらすぐに寝られたから問題ない。お前の方こそ、ちゃんと睡眠取ってんのか」
席に座ってパソコンの電源を入れる。鞄を袖机の中に入れたりしていると、瀧が俺の真横に椅子ごと来て、いつものように肩肘を突いて俺を見つめた。
「考え事してたから、ちょっと寝不足かな」
……これに変に反応すれば、藪蛇になるのは目に見えている。俺は沈黙を守ることを選んだ。
瀧が、ふ、と小さく笑う。
「会社さ、辞めるの考え直さない?」
「瀧、俺はもう決めたんだ」
瀧は俺の言葉はスルーして続けた。
「なあ俺、昨日色々思い出してたんだ。その中で、あれって思うことがあってさ。聞いてくれる?」
「あいつのことなら、もう聞きたくない」
「少しだけ。な? 作業しながら聞いてるだけでいいから」
瀧があやすように言うものだから、しかめ面をしながらも「……聞くだけだぞ」と答えてしまう。
瀧は「ありがと」と小さく笑うと、話し始めた。
「俺さ、実は最初は第三営業部に配属される予定だったんだよね」
「え? そうなのか?」
あまりにも意外な告白に、思わず反応してしまう。しまった。
瀧が、微笑みながら頷いた。
「そ。元々は高井が第一営業部に配属される予定だったんだ。なんだけど、高井がどうしても第三がいいって粘り強く交渉した結果、俺と入れ替えになったんだって」
「交渉? 一体また、なんで」
俺はそんなこと、朝陽から一度だって聞いたことはない。初めて聞く内容以上に、朝陽が教えてくれていなかったことに困惑する。俺が知っていた朝陽は、本当の朝陽だったのか。以前瀧が言っていた「猫を被っている」や「作っている感」。その真実味が増してきて、胸が苦しくなった。
まさか、本当に? だったら俺が大切な思い出として取っておこうとしていることも、全部――作り物だったっていうのか。信じたくない。
瀧は俺が衝撃を受けていることには気付かなかったのか、変わらぬ様子で話を続ける。
「人事に聞いた話だと、企業説明会の時にとある先輩に物凄く親切にしてもらったんだってさ。うちの会社に入社を決めたのも、その先輩と働きたかったかららしいよ」
「……ふうん」
愕然としていたお陰で、興味なさげに返すことができた。
俺が見ていた朝陽の姿は嘘だったかもしれないという疑い。こんなこと、思いたくない。だけど豹変した朝陽の態度と、瀧が語る朝陽の印象や過去の言葉が、俺が盲目的になっていただけなんじゃないかと現実を突きつけてくる。
信じたくない。だけど、でも――。
瀧が、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「……誉、俺の言ってる意味、伝わってない?」
「え、ごめ、何が」
瀧は眉を八の字に垂らすと、右手を俺の頭に伸ばし――躊躇ったように引っ込める。
「誉、今の話を聞いて、なにか思い出さない?」
寂しそうな笑みを浮かべる瀧。思い出す? 思い出すって一体何をだ。
俺が余程怪訝そうな顔をしていたのか、瀧が参ったな、とでもいうように頭をガリガリと掻いた。
「えーと、俺も確証はないけど、もしかして高井が親切にしてもらった社員って――」
「おっはよー!」
突然、明るい挨拶を投げかけられる。二人同時に声がした方向を振り向くと、キャリーケースをゴロゴロと引く安西がにこやかに手を振っているじゃないか。
「安西!? お前がこんなに早く出社するなんて、どういう風の吹き回しだよ!」
あまりの驚きに尋ねると、安西が「それがさ、聞いてよ!」とこちらに向かいながら話し始める。
「今日朝から出張だったのに、新幹線が電線トラブルで運休になっちゃってさ! 暫く復旧しないから、急遽出張は取りやめ。参っちゃうよ!」
「そりゃまあ災難だったなあ」
「でしょー?」
俺たちのやり取りを静かに見守っていた瀧が、小声で言ってきた。
「誉、昼に続きな」
「あ、うん」
まだ続くのか。正直朝陽の話はもうしたくないと思いながらも、頷き返す。
「あ! ていうかさ、昨日すっげー噂聞いたんだけど、まさかほまちゃん辞めないよな!?」
「あー、その、いや、検討中で」
「ちょっとマジで!? 俺絶対嫌だよ!?」
安西の質問攻めが始まってしまい、俺は返事に窮したのだった。
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