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42 言い争い
安西はどうしても納得できなかったらしく、「今夜飲みに行くぞ! ほまちゃんを説得する!」と言い出した。
安西の好意が伝わるだけに断りにくいが、説得されたところで俺は意見を変えるつもりはない。
「また今度な」
「あっさり振るなよ! 俺は諦めないぞ!」
そこへ、昨日安西にデータの修正を頼んでいた先輩社員が「安西! お前これなんだ!」と呼びつける。
俺は顎をしゃくり、悔しそうな顔をしている安西に向かって言った。
「ほら、行け。真面目に仕事しろ」
「くっそお……っ」
悔しそうな安西が、渋々といった様子で先輩社員の元に向かう。やれやれだ。
でも、これから辞める日までこれが続くのかと思うと、今から先が思いやられた。はあーと溜息を吐いていると、横から瀧がぼそっと言ってくる。
「面倒くさいなら、辞めるのやめちゃえば? 自分がどれだけ好かれてるのか、もうちょっと自覚していいと思うけど」
お前もか。
「……聞こえない」
「頑固者。俺も諦めないからな」
というか、この様子だと、瀧が辞めるという話は完全に立ち消えたらしい。引き止め作戦にこいつまで参戦されると、正直分は悪い。アルファってやつは、こっちが気付かない間に退路を断ってくるから質が悪いんだよな。
内心戦々恐々としながらも、午前中はそれ以上踏み込まれることもなく、黙々と仕事をこなしていった。
そして、気が重い昼休みを告げるチャイムが鳴る。瀧がすぐさま俺の横に立った。
「誉、社食行こ」
「いや、俺は……」
正直、昨日の騒動の後で行きたくない。周りを一切気にしない瀧の強メンタルは尊敬に値するが、俺には真似できないし、したくもない。
微笑んだまま、瀧が言った。
「いいから行くんだよ。食え。お姫様抱っこして連れて行かれるのと自分で歩くのとどっちがいい」
「あ、歩くから!」
ピャッと立ち上がると、瀧が「ん、いい子」と微笑みながら逃さねえぞとばかりに俺の手首をきつく握り締める。これじゃ昨日と一緒じゃないか。というか、よく考えたらなんでその二択しかないと思ったんだ、俺。
エレベーターホールに向かってグイグイ引っ張られながら、心の中で溜息を吐いた。俺、こんなに流されやすくてこの先ひとりでやっていけるんだろうか。次の就職先では、この事なかれ主義を隠して自己主張強めにいってみるとか――あ、駄目、無理。多分ストレスで早々にへたばるコースだ。
第一営業部の前を通り過ぎた時、中から「朝陽さーん! ほら、早くお昼行こうよおっ」という高めの男の声が聞こえてきた。瞬間、心臓が大きな手で握り潰されるような圧迫感を感じ、思わず息を止める。
身体が強張ったのが、掴んだ手から伝わったんだろう。瀧は「誉、走ろっか!」と笑顔になると、突然駆け足で走り出した。
「えっ!? わ、ちょっと」
「ほら、急がないと列ができるぞ!」
「俺、運動神経はアレなんだよ!」
うまく回転しない足を辛うじて前に出しながら伝えると、瀧が破顔する。
「あは、そうなの? 誉可愛いじゃん!」
「可愛い言うな!」
あっという間にエレベーターホールに到着した。丁度人が乗り込んでいるエレベーターがあったので、瀧が「乗りまーす!」と明るい声で中に入っていく。
チン、と音を立ててドアが閉まると、混雑した箱の中に沈黙が広がった。……視線を感じる。辛い。
瀧は慣れ切っているんだろう。全く周りを気にする様子も見せず、にこやかに話しかけてくる。
「腹減ったね」
「……そうでもないかな」
「誉、少食過ぎるって。もっと食べてくれないと心配になる」
やめろ。みんな聞き耳を立ててるぞ。過保護発言されると、小心者な俺のハートがダメージを喰らう。
「誉? 返事してってば」
にこにこしながら俺を見下ろす瀧。くそう、こいつ絶対分かってやってるな。何としてでも俺に食わそうという意志を感じる。
「分かった、食うから。だから黙っとけ」
「はーい」
なにが「はーい」だ、と思いながら、早く着けと祈った。
幸い、瀧はそれ以上口を開くことはなく、無事社食のある二階に到着する。走ったお陰もあってか、今日の列はまだ長くなく、程なくして俺たちの番が回ってきた。
俺は若鶏のみぞれ煮定食、瀧は昨日もあった豚のピカタにペペロンチーノ大盛りという恐ろしい量の料理を注文する。本当こいつ、細い癖によく食うよな。
先に食べ終わり、瀧の豪快な食べっぷりをぼんやりと眺めた。
瀧は実にうまそうに食べるから、見てるこちらも何だか幸せになってくる。
俺の視線に気付いた瀧が、顔を綻ばせた。
「なに、誉。俺の顔見てニヤニヤしてさ」
「え? 笑ってたか?」
頬を両手でグニグニする。瀧がにこやかに頷いた。
「うん。――なあ誉、朝話したこと、分かった?」
「……ええと、あいつが入社前に第三営業部を希望してたって話だろ」
「そうなんだけどそうじゃなくてさ。気付かない? 二年前の企業説明会でとある先輩に物凄く親切にしてもらった。その先輩と働きたいと思ったってことはさ」
瀧の言いたいことが分からない。顔を顰めると、瀧が少し唇を尖らせる。そういう顔をすると……朝陽を思い出すからやめろ。
「俺はそうだと踏んでるんだけどなあ」
「訳が分からない」
「んーとさ、だから第三営業部を希望したのって、第三営業部にその先輩がいたからなんじゃないかって考えたんだよ」
「瀧、もういいよ」
瀧が俺に何を伝えたいのかはいまいち分からないけど、何となく慰めようとしているんだろうなってことは分かる。でも正直、本当にもう朝陽のことは考えたくなかった。
椅子を膝裏で押して、立ち上がる。
「先に戻ってる」
「――まっ、待って!」
瀧は俺が椅子を引っ込めトレーを持つ間に残りを全て掻っ込むと、食器の返却口に向かい始めた俺の後を慌てた様子でついてきた。
「誉! 待ってってば!」
「デザート食べたいんじゃないのか。食っていけよ」
「待てって! そ、そうだ! 昨日言おうとしてた続きもある!」
昨日の続き。匂いがどうとかいうやつか。
返却口にトレイを置くと、「別に知りたくない」と端的に答える。瀧もトレイを置くと、俺の肩を掴んで引き止めた。
「聞けって! あのな、アルファにはフェロモンを自分のもんだと思ってる相手に擦り付けて、匂いを感じ取れる他のアルファを牽制することがあって、」
「……瀧が最初に会った時に言ってたやつか?」
第一営業部から出てきた瀧が、匂いが凄いだの何だのと俺に言ったことを思い出す。
「そう、それ!」
だとしたら、あの時は確かに朝陽はまだ俺に執着していたんだろう。オメガに出会う前だったから。
必死に引き留めようとする瀧に一瞥をくれた後、再び前を向き歩き始めた。
「……そっか」
「待てって! 話を聞けってば! 俺、誉が振り回されてるの見て、だから最近の匂いを嗅いで、分かってたのに言ってなかったことがあって!」
その理屈で言うなら、現在朝陽の匂いを纏っているのは福山結弦だろう。俺は一体何を言われようとしてるんだ? いかにあのオメガが朝陽の匂いを振りまいてるかって聞かないといけないのか? 聞きたくない、もう聞きたくない――。
ふと視線を感じ、辺りを見回す。周囲の社員が、今日もまた俺たちに注目しているじゃないか。……うわあ、今すぐこの場から逃げ出したくなってきた。さっさと退散しよう。
「瀧。嫌なことは無理して話さなくていいから」
「ちが、そうじゃ、」
「――もういい!」
力任せに身体を捻り、肩を掴む瀧の手を払った。
何故か泣きそうな顔の瀧が、首をふるふると横に振る。
「違う、違うんだ誉、嫌なことじゃなくて、俺は訳分かんないし悔しくてそれで、」
と、その時。
「――え」
俺を見ていた瀧の目が、驚いたように見開かれていく。
「瀧?」
「う……っ」
苦しそうに表情を歪めた瀧の目線が、社食の入り口の方にゆっくりと向けられていった。
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