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43 ヒート
瀧の様子が、おかしい。
背の高い身体が、ぐらりとふらつく。
「おわっ、あぶなっ!?」
慌てて正面から瀧を抱き止めた。ハア、ハア、と荒い息をし始めた瀧が、俺に縋るようにしがみつきつつ、体重を預けてくる。一体どうしたっていうんだ。明らかに様子が変だ。
「おい!? どうした、大丈夫か!?」
必死で瀧の体重を支えながら、問いかける。立っているのも辛いのか、頭をぐらぐらさせている瀧が、俺の肩に額を付けた。
うう、と苦しそうに呻く。すぐ目の前にある瀧の端整で甘いマスクは興奮したかのように赤く火照り、小刻みに吐く息もやけに熱く感じられた。
「これ、あのオメガのじゃねえか……っ」
苦しそうな声で、絞り出すように呟く瀧。
「え、何だ? オメガがどうしたって?」
脂汗なのか、瀧の皮膚という皮膚から汗が滲み出てくるのが分かった。尋常でない様子に、医務室に連れて行くべきかと考える。でも、医務室は人事のある七階まで行かないといけない。この状態の瀧を連れて行けるか――? 誰か助けを、と周囲を確認しようにも、瀧がぐりぐりと顔を首に押し付けてくるもんだから、瀧の髪の毛が邪魔で周りが見えない。
「あー畜生……っ! 不意打ちじゃねえか……反応したくねえ……っ」
「は? え? 不意打ち!?」
するとその時、俺の後方から甲高い男の声が聞こえてきた。
「早くぅ……っ! 僕を助けてっ! 今すぐ抱いてっ、辛い、早く触って、あっ、ああんっ」
は? 抱く? 真昼間から何を言ってるんだ。ここは会社だぞ!?
周囲の社員らがざわつき始める。
「お、おい、あれ!」
「副社長のとこのオメガだぞ! 何やってんだ?」
は? またあのオメガが来たのか!? と苛立ちながら顔だけで振り返る。と、驚きの光景が目の前に広がっていた。
社食の入り口の床にぺたんと座り込んでいるのは、福山結弦だ。苦しそうな息をしながら、目の前に立つ人物――朝陽に華奢な片手を伸ばしている。
朝陽は立ち竦んだ状態で、両手で自分の口を押さえていた。眉間には深い溝が刻まれ、顔は瀧と同様にかなり火照っている。
と、どこか妖艶に身体をくねらせていた福山結弦が、再び朝陽の名を呼んだ。
「朝陽さん、お願い……っ! 苦しいのっ! 早く僕を連れて行って抱いて! ほらここ、僕のうなじを噛んで、今すぐ番にして……んっ!」
そう言うと、突っ立ったまま動かない朝陽のズボンの裾を摘む。朝陽がビクンッ! と大きく反応するのが見えた。
「うなじを噛んでって……まさか、ヒート!?」
そもそもオメガに遭遇すること自体が稀なので、俺は正確にはヒートがどういう症状なのかも曖昧だ。だけど、福山結弦の言葉と、瀧と朝陽の二人ものアルファの様子がおかしい今の状況を総合すると、福山結弦がヒートを起こしてしまったと考えるのが一番しっくりくる。
すると、瀧がふらりと俺に抱きついたまま二人の方に近付こうとするじゃないか。
「お、おい!?」
ヒートだとしたら、「ハズレアルファ」と評された瀧に間違っても福山結弦のうなじを噛ませちゃいけない。お互い、不幸になる未来しか見えない。
「なんだってこんな所でヒート起こすんだよ、畜生……っ」
瀧の言葉で、やっぱり自分の予想が当たったことが分かった。
じゃあ朝陽はこの後あのオメガのうなじを噛んで番に――。
次のヒートで番になると約束していたのを、目の前で聞かされている。だから、あの二人がこのまま番うのは理には叶ってるんだ。
でもどうしても嫌で仕方なくて、もう噛んでいたらどうしようと再度振り返る。朝陽は立って口を押さえたまま、先程の場所から移動していなかった。
福山結弦は自らチョーカーを取ると、「お願い、噛んでえ……っ!」と頭を傾けうなじを見せ、甘ったるい嬌声のような声で懇願している。だけど、朝陽は一切動かない。まるで石像のように固まってしまっている。どうしたんだろうか。こんな観衆がいる場所じゃしたくないのかもしれない。朝陽は常識人だから、体裁は大事にする筈だ。
だからまだ、番になってない。
ほっとした瞬間、瀧に力負けして瀧ごと一歩分二人に更に近付いてしまった。慌てて瀧に向き直る。
「瀧、しっかりしろよ!」
これはどう見ても、瀧は福山結弦のオメガのフェロモンに惹き寄せられている。だけど、それじゃ話が違うじゃないか。荒い息を繰り返す瀧に、懸命に話しかけた。
「どうしたっていうんだよ! オメガに別のアルファの匂いが付いてたら、他のアルファは近付けないんじゃなかったのかよ!」
すると、瀧がようやく顔を上げる。奥歯を噛み締め、上気した顔は苦しそうに歪んでいる。
そして、瀧の瞳孔は開いていた。
「瀧……っ!」
拙い! これ、ラットになりかけてないか!?
「さっき言おうとしたのに……っ」
「は!? 何がさっきだ!?」
瀧がこれ以上福山結弦に近付いて不幸な事故が起きないように、俺は懸命に瀧に抱きついて押し返す。
瀧が、泣きそうな声で叫んだ。
「あのクソオメガには、アルファの匂いがちっとも付いてないんだよ! 畜生っ、高井の奴、ちゃんと付けておけよ!」
「……は?」
言っている意味が理解できなくて、間抜けな声が出る。
「高井はあのオメガに匂いを付けてねえんだよっ! 俺だってやだ、やだ、好きでもないクソオメガに惹かれる自分が殺したいくらい腹立つ……!」
ギリリ、と瀧の奥歯が鳴った。アルファ特有のベータやオメガより発達した犬歯が、瀧の下唇を突き破る。血が滲み出てきた。
「瀧! しっかりしろ!」
朝陽の匂いがあのオメガに付いていないとか、それがどういう意味なのかすら、今の状況では考えられなかった。
必死で瀧の身体を揺さぶる。なにか解決できる方法はないか!? 一所懸命、考えを巡らせた。
ハッ! と気付く。
「そうだ、瀧! 抑制剤は持ってるか!?」
瀧が夢を見ているような目で俺を見る。
「抑制剤……あ……財布に常備してる……」
「それだ! 今すぐ出せ!」
瀧の財布があるであろう後ろポケットを弄った。と、ゴリ、と硬く勃ち上がった瀧のモノが、俺の腹部に当たる。うおう。
「瀧、財布漁るぞ!」
財布を引っこ抜くと、二つ折りのそれを開く。一番手前のカード入れに、『緊急抑制剤・アルファ用』と書いてあるものを見つけた。『水なしで飲める、便利タイプ』とある。どれくらいで効くのかは分からないが、これを瀧の口の中に突っ込めばいいってことだ。
焦りで滑る指で必死に個装袋を破くと、白い錠剤と手に取る。俺にのしかかっている瀧の口の中に、強引に突っ込んだ。
「瀧、飲め!」
「ん……」
ぽわんとした目の瀧が、薬を摘んだ親指と人差し指をぱくりと咥えて舐める。ぬ、ぬお……! ぬめり具合に焦って指を引っ込めると、瀧がごくんと嚥下する音が響いてきた。これでよし、だ! 後は効くまで瀧を押さえていればいい。
――その間に、きっと朝陽と福山結弦は番ってしまうだろうけど。もう、仕方ない。瀧を救えた自分を誇りに思うんだ。
まだ瞳孔が開いたままの瀧が、こてんと首を傾げる。
「あれ、誉だ……誉がいる……誉が抱きついてる」
「た、瀧?」
カタコトになってしまった瀧の様子に恐怖を感じ、顔を引きつらせた。
「誉、俺がいい? もうアイツのこと忘れられた? 俺、誉のうなじ噛みたいな」
「は? お前なに言って、」
熱に浮かされたような口調だ。俺の返事が聞こえてるのかいないのか、瞳が嬉しそうに弧を描いた。
「ハマるつもりなかったのになあ……高井ばっかって思って、でも俺の匂い付けたくて、付けまくって、誉、俺のもんになって……?」
言ってることが、支離滅裂だ。もしかしたら、もう半分以上理性を失ってるんじゃないか。
「お、おい、正気に……!」
「誉、可愛い」
笑顔になった瀧が、俺の両手首を片手できつく掴んだ。もう片方の手で後頭部をガシッと覆う。
「わっ!? ま、待て! 早まるな!」
瀧が、口を大きく開けて俺の首に顔を近付けていった。
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