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44 既視感

 俺はベータだ。  アルファにうなじを噛まれたからって、アルファの番にはならない。だから最悪、俺はいい。  でも、瀧は違う。こんな観衆の前で俺のうなじを噛んだら、折角会社に残ろうと考え直した瀧が居心地悪くなってしまうじゃないか。 「瀧、やめろ……! お前は今正気じゃないんだ……!」  瀧の顔面を鷲掴みにして押し返す。だけど、我を失いつつあるアルファの力は半端なく強かった。瀧の口が、徐々に俺のうなじに近付いてくる。  首筋に熱い息が吹きかけられて、思わずブルリと震えた。掴んでいる瀧の顔中から汗が吹き出していて、つるつる滑る。早く、早く効いてくれ!  甘え声で、瀧が懇願してきた。 「誉ぇ……噛ませて……」 「お前が絶対後悔するから駄目! 抑制剤が効くまで耐えろーっ!」 「えーいいじゃん……」 「よくないっ!」  もう、朝陽と福山結弦の様子を確認する余裕は一切ない。周りの社員たちも、いつもくっついている二人が番になることを止める訳にもいかないんだろう。俺と瀧も噂の的になっていたこともあってか、様子を窺っている空気は伝わってくるけど、誰も助けようとはしてくれなかった。  いや、マジで助けてくれ! 今にも力負けしそうなんだよ!  と、次の瞬間。 「えっ!? や、いやああああっ!」  福山結弦の叫び声が周囲に鳴り響く。  野次馬が、ザワワッと急にうるさく騒ぎ始めた。気にはなるけど、振り返った瞬間、瀧に噛まれる気しかしない。だから自分の目で確認することはできないけど、この感じだととうとう噛まれたんだろう。あれは普通に痛いし、思わず叫んでしまうのは分かる。  だけど、俺の場合とは違って、アルファがオメガのうなじに噛みつく行為は大きな意味を持つ。  もうこれで本当にさよならなんだな――。  未だに未練たらたらでどこかで最後の望みを捨て切っていなかった自分を再認識して、自嘲気味に小さく笑うしかなかった。 「ああああ……っ」  福山結弦の嬌声にも似た叫び声は、まだ続いている。  じん、目頭が熱くなってきた。だけど、ここで俺が涙を見せたところで、外野にいらない詮索をさせる機会を増やすだけなのも分かっている。幸せになる予定の朝陽の邪魔をこれ以上しない為には、奥歯を食いしばり必死で涙を堪えるしかない。  ふと、気付く。 「……あれ?」  こころなしか、瀧の押す力が弱まっているような。抑制剤が効いてきたのかもしれない。 「瀧――、」  と、次の瞬間、またもや福山結弦の叫び声が聞こえてきて言葉を遮られた。 「……ちょっとお! 信じられないんだけどっ!」  ――は?  信じられない? 何がだ? と思っていると、今度こそ瀧がフッと力を抜いたのが伝わってくる。ハアハアと荒い息の後、瀧が「……ふー」と長い息を吐いた。  ゆっくりと顔を上げた瀧を見る。まだ顔は汗だくで火照っているものの、瞳孔は元に戻りつつあった。抑制剤が効いたんだ。 「瀧、大丈夫か?」  瀧は辛そうに頷くと、肩越しに俺の後ろを見つつ、大分落ち着いた声色で囁く。 「誉、後ろ見て」 「え……と、いや……」  そうは言われても、正直、番になった場面を冷静に見られる気はしない。見たらきっと、俺は泣いてしまうから。そうしたらもう、何も言い訳しようがない。未だに昇天させられない俺の恋心を、番ができたばかりの朝陽に見られてしまったら、きっと軽蔑される。  今度こそ、嫌悪の眼差しで見られてしまう。俺はそんなの、嫌だ。嫌なんだ。  話題を変えることにした。 「……それより瀧、もう大丈夫か? 具合が悪いとかどこか痛いとかは、」 「誉、いいから見てってば」 「いや、俺はいいよ」 「誉っ」  それに――はっきり言って、ここのところ噂で伝わってくる朝陽と福山結弦の評価は、散々なものだった。  優秀なアルファが玉の輿に乗ったことに対する妬み、第三営業部や俺に対する、恩知らずにも見える冷たい態度。更には会社内で堂々といちゃつく場面をしょっちゅう見せつけられて、普通の人間なら「なんだあいつら」と思うのは俺も理解できる。アルファだからまかり通るんだろうなという冷笑が混じっていたのも、感じ取れていた。  俺はずっと、違和感を覚えていた。あれだけ周囲に気を使ってうまく調整していた朝陽が、たったひとりのオメガに出会っただけでああも周りが見えなくなるものかと。  でも恋は盲目と言われるように、本当に自分の立ち位置が見えなくなってしまったんだろうと思う他なかった。オメガとの出会いは、それまでの朝陽の全てを塗り替えるほど重要なものだったんだろう。  ……でも、元恋人である以前に、朝陽は俺が九ヶ月育てた可愛い後輩だ。ここで俺が泣いたら、あることないこと勘ぐられて、また朝陽に対する批判が膨れ上がる。  先輩として、それは避けてやりたかった。 「……分かれよ」  苦笑してみせる。すると瀧が、苛立たしげに血が滲んで痛そうな唇を噛み締めた後、俺のこめかみを両手で挟んだ。 「あーもう! いいから見ろ!」 「ちょっ!?」  ぐいっと頭を無理やり回転させられ、見るつもりのなかった朝陽と福山結弦の姿が視界に飛び込む。 「……へ?」  頭のすぐ後ろから、瀧が小さく笑うのが空気で伝わってきた。 「まさかだよな。でも見た瞬間、スカッとした」 「いや、スカッとっていうかあれは……」  目の前に広がっていた光景。それは、朝陽が自分の足許に座り込んでいた福山結弦の頭の上に嘔吐した驚きの場面だった。  ……はい?  福山結弦が、いやいやをするように身体を妖艶にくねらせる。 「きったなっ! し、信じられない……っ!」 「……オエエエエッ!」  苦しそうに喉元を押さえている朝陽が、真っ赤な顔をしてもう一度吐いた。福山結弦の頭頂に、第二弾が注がれる。 「ぎゃーっ!」  あれ――?  一瞬、既視感が俺を襲った。この光景、どこかで見たような。でも朝陽が吐いたところなんて見たことないし、あれ? 「いやあんっ! くさあいっ!」  殆ど水分に見える吐瀉物をまたもや引っ被った福山結弦が、朝陽から手を離してズルズルと後退った。 「何で吐いちゃうの!? いい場面だったのにっ! んうっ、お腹が苦しいよお……っ! 早く抱いてってばあ……っ」  福山結弦の股間が、こんな状況でもテントを張っているのが見える。うおう……あんまり見たくない……。  そういえば、と自分に嫌気を覚えながらも気になって朝陽の股間部を見ると――あれ? 全く反応してないように見えるぞ。どういうことだ?  と、スーツの袖で汚れてしまった口元を拭いながら、朝陽が吐き捨てるように言った。 「……貴方の匂いは臭いんです」 「は――、」  意味が分からなかったのか、福山結弦がぽかんと口を開けて朝陽を見上げている。 「貴方の近くにいるだけで、いつも吐き気がしていました」  朝陽の言葉に、その場がシン、と静まり返った。

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