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45 幕引き
荒い息を繰り返しながら、福山結弦のことを「臭い」と言い切った朝陽。
それまでざわついていた社食が、発言内容の衝撃からか、沈黙に包まれる。
は? 臭い? いやだって、アルファにとってオメガの匂いは極上の匂いなんじゃないのか?
ぽかんとしていた福山結弦も、ようやく意味を理解したんだろう。相変わらず身体をくねくねさせながら、怒り始めた。
「なっ、ひ、酷いよっ! 折角この僕と番わせてあげようと思ったのに!」
この僕。確かに美人ではあるけど、この性格じゃあな、と思うのはきっと俺だけじゃないだろう。朝陽に関しては――ちょっと分からなくなってきた。一体どういうことだ? と二人の様子を見守っていると、なんと福山結弦の手が自分の股間に伸びていくじゃないか。いや待て、待て待て待て!
「あんっ、苦しいよお、今謝るなら許して抱かせてあげるからっ、早く、早くうっ」
服の上から自分のモノを擦り始めて腰を揺らす福山結弦。繰り広げられる破廉恥な光景に、周りの男性社員の目が釘付けになる。
「あっ、気持ちいいっ、でも足りないっ、朝陽さんっ、許してあげるからっ、早く来てってばあっ」
本格的な発情が始まったのか、福山結弦はヘコヘコ股間を床に擦り付けながら、自ら上着の前をどんどん寛げていくじゃないか。いや、いやいやいや。ここ会社だぞ!
でも、吐瀉物を被ってはいても、さすがはオメガだ。肩がするりと剥き出しにされると、とんでもない色香を振りまき始める。見物している男性社員たちの何人かが、鼻の穴を大きくし、顔を赤くしている姿が散見された。
肩で息をしている朝陽が、足許で自慰を始めようとしている福山結弦がまるで汚物であるかのような目で見下ろす。
「福山さん。僕が貴方と番いたいなんて、一度でも言ったことはありますか」
「ちょ、ちょっと、冷たいんだからっ、あっ」
自分の手でピンク色の胸の突起を摘む姿に、周囲の人間が動揺する空気が伝わってくる。女性社員の何人かは、思い切り顔を顰めていた。……嫌われてんな、福山結弦。
「貴方に散々脅された件ですが、お陰様で証拠が揃いまして。先ほど全て人事と、揉み消されるといけないので会社のイントラに投稿しておきました」
「――は?」
ザワワッと周囲がざわつき始める。脅されてた? 証拠? イントラ? 一体何の話をしてるんだ?
「もう言い逃れできませんよ。覚悟して下さい」
「な、何を言ってるの朝陽さん……っ、酷いっ! 僕を貶めてどうしようっていうの! うわあああんっ!」
福山結弦が、大袈裟な様子でわっと泣き出す。……嘘くさい。
と、そこへ、バタバタとこちらに向かって走ってくる複数の足音が聞こえてきた。企業説明会の全体説明会の時にもいた人事の人たちが数名、それにスーツの年配男性は――副社長の秘書だ。
猛スピードで走ってきた副社長秘書が、ポケットから注射器を取り出す。もう目も当てられない状態の福山結弦の太腿に、思い切り注射器を突き立てた。
「いったあいっ!」
福山結弦が、飛び上がって泣いていた顔をバッと上げる。おっと、涙は一切見えないぞ。やっぱり泣き真似か……。
「ちょ、ちょっと飯島! 何するのっ! 折角仕込んだヒートトラップが!」
飯島と呼ばれた副社長秘書が、細面の渋い顔を顰めた。
「ヒート周期と随分ずれていると思ったら、やはり発情剤を使ったんですか」
「あ」
しまった、という顔になる福山結弦。
飯島さんが、自分が着ていた背広をサッと脱ぎ、固まる福山結弦の頭から被せる。ああすると、まるで連行される犯人みたいだ。
「発情剤を使ってわざとヒート事故を起こそうとしたのなら、これは立派な犯罪です。もう揉み消すことは、さすがにできませんよ」
「へ……っ、は、犯罪っ!? 嘘っ、だって部長さん、僕にそんなことひと言だってっ」
再び、周囲がザワワッとざわつき始める。
「部長って、第一営業部の部長のこと?」
「そういやあの人、随分とやりたい放題だって聞くよな」
「なんでも副社長と大学時代からの知り合いとか聞いたけど、関係あるのかな」
「えーっなにそれ!」
そうなのか。全然知らなかった。
飯島さんが、呆然としている福山結弦を立たせると、支えるように脇に抱えた。
朝陽に向き直ると、一礼する。
「この度は多大なご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。謝罪は後日別途伺わせていただきます」
「……もう二度と、その人を僕に近付けないで下さい」
息も絶え絶えな様子の朝陽の言葉に、飯島さんは更に深く頭を下げた。踵を返すと、「やだ、やだあ……っ」と抵抗する福山結弦を引っ張りつつ、消えていく。
最後は、呆気ない幕引きだった。
固唾を呑んで見守っていた野次馬たちが、一斉に騒ぎ始める。「イントラってなに!? ちょっと誰か会社携帯持ってない!?」という声もあちこちから聞こえてきた。そうだ、さっき朝陽が言っていた「証拠」って一体何の話だ? 脅されてたって、何を脅されてたんだ?
本当にあのオメガに脅されていたにしたって、どうして俺にすぐ相談してくれなかったんだよ。やっぱり俺は、朝陽の中では頼りにならない相手だったのか。
何をどうすればいいのか分からず、その場に呆然と突っ立っていると。
「う……っ」
朝陽が急に胸を押さえ、苦しそうに膝を突いた。
「あ……っ」
思わず「大丈夫か」と駆け寄ろうとしたけど、勝手に前に伸ばされた手がやがて力なく足の横に垂れていく。
もう、朝陽の隣にあのオメガはいない。だけど、だからといって俺の場所が残されているという意味じゃないんだ。俺ははっきりと朝陽に別れを告げられている。とっくに赤の他人に格下げされた俺にもうその権利は――。
すると、俺の両肩に手を乗せていた瀧が、後ろから頭をコツンと俺の後頭部に軽くぶつけてくる。
「誉。行けよ」
まだ少し苦しそうな声が、俺を励ました。
「でも……」
「ひとりでごちゃごちゃ考えて勝手に結論を出すな。誉の悪い癖だぞ」
周囲の騒ぐ声は、益々大きくなっていく。まるで俺たち三人だけが取り残されたかのような喧騒の中――。
瀧が、とん、と俺の背中を押した。一歩、朝陽の方に踏み出す。
「行ってこい。駄目だったら、俺が慰めてやるから」
「瀧……っ」
どういう顔をしたらいいか分からないまま振り返ると、腕組みをした瀧が生意気そうな笑顔で俺を見つめ返していた。
瀧の瞳が潤んでいるように見えるのは、俺の気のせいだろうか。
俺の方が泣きそうになって、鼻がツンと痛くなる。震え始めた表情筋で辛うじて笑みを作ると、伝えた。
「瀧――ありがとうな」
「ん」
身体全体が、恐怖からか緊張からか、小刻みに震えている。唇を噛み締めて前に向き直ると、床に膝を突いて苦しそうに肩で息をしている朝陽の元に、一歩、また一歩と近付いていった。
吐瀉物を避けて、朝陽の横に立つ。
俺の足が見えたのか、朝陽がビクッと反応を示した。
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