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46 言えなくなっていた言葉

 膝を突いた状態の朝陽は、俺が横に立っても顔を上げない。  床に目線を落としたまま、これまた床に突いている両手をぐぐ、と握り締めるばかりだ。まるで、怒られることに怯え、膝を抱えている幼い子供のように見えた。  別れて以降、俺に興味を失っていたかのような朝陽の無表情。もしあれが実は興味を失った顔なんかじゃなくて、俺に責められることを恐れて怯える顔だったんだとしたら――。  この半月とは明らかに異なる朝陽の今の様子を見ていたら、ふと思った。  俺はこれ以上、朝陽に嫌われることを恐れていた。でももし、そう、もしかして実は、朝陽も同じことを俺に対して思っていたら? と。  朝陽がしているように、俺も拳をぐっと強く握り込む。怯えてただ震えていたって、状況は変わらないぞ、俺。ひょっとしたら、怖いのは俺だけじゃないかもしれないんだ。朝陽も俺と同様に怖がっているとしたら、朝陽の先輩である俺がしっかりしなくてどうするんだよ。  だけど、まともに会話するのは、別れたあの日以来だ。これまでどうやって話していたか、どういう距離感だったかすらも、今の俺にとってはあやふやだ。  吐き気が治まりつつあるのか、大きく繰り返していた朝陽の呼吸が徐々に小さくなっていく。それでも、やっぱり顔を上げてはくれない。  どう声をかけよう――?  困り果てて目線を彷徨わせる。少し離れた所から俺たちの様子を見守っている瀧が、いいから話しかけろとばかりに顎をしゃくった。くっそ、あいつはいつも偉そうだな。  でも、不遜だけどいかにも瀧らしい態度に、怯えで強張っていた身体からフッと力が抜ける。 「あの、」  ようやく、声が出た。我ながら、思ったよりも落ち着いた声色だったことに安堵を覚える。 「……その、大丈夫か?」  朝陽が吐いた内容は、殆どが水分だ。周囲に胃液の匂いは漂っているものの、殆ど福山結弦の服が吸い込んだらしく、あまり残ってはいなかった。床も後で拭かないとな、と頭の片隅で考えながら、朝陽の頭頂を見つめ続ける。  後ろポケットに入れているハンカチを取り出した。朝陽の横にしゃがむと、顔を下から覗き込んでハンカチを差し出す。 「これ使え」  それでも、朝陽は動かない。ようやく見えた目が、所在なさげにあちこちに向けられているのが見えた。 「朝陽――は呼んじゃいけないんだったか。あの、高井さ。使ったら捨てていいから、とにかく一度口を拭いて――、」  俺がそう言った瞬間、これまで俺を見ようとしなかった朝陽がバッと顔を上げ、俺を真っ直ぐに見た。顎はガクガク震え、切れ長の瞳には涙の膜が張られている。 「ちょ……」  ……言いたいことや聞きたいことは、沢山ある。でも、こんな怒られて怯える子供みたいな顔をされちゃ、言える訳ないじゃないか。  ふ、と微笑みを浮かべると、震える朝陽の口周りを勝手に拭くことにした。驚いたように目を見開く朝陽。近くに寄ると、よく分かる。朝陽の頬が、以前よりも大分こけてしまっていることが。  前だったら簡単に気付いただろうそんな簡単なことからすら目を逸らしていたってことに、ようやく気付いた。 「高井、ほら。顎出せ」 「ど……どうして……っ」  朝陽が、顎を震わせながら、絞り出したような声を出す。俺は笑顔のまま、子供をあやすように努めて穏やかに伝えた。 「とにかく、一旦ちゃんと拭こう。顔以外は汚れてないみたいだけど、他に汚れた場所があれば――」 「――どうしてっ!」 「わっ」  突然の大声に、思わずビクッと手を引っ込める。やっぱり触っちゃ駄目だったか? でも顎が汚れてたし、このまま放って置く訳にもいかないし……。  距離を測りかねて戸惑いながらも、拭くのを再開する。  ぶるぶる震える朝陽の手が、ハンカチを持っている俺の手首を掴んだ。――え? 「……高、」  すると、朝陽がぼたぼたと涙を零し始めてしまったじゃないか。絞り出すように苦しそうに、意外な言葉を放つ。 「もっと怒って下さい……っ!」 「へ、」  朝陽の瞳から、次から次へと大粒の涙が溢れ出てきていた。 「僕、沢山酷いことしました……! お前なんて大嫌いだって、最低野郎だって、気が済むまで殴って蹴って下さい……!」  ……ええと。鼻の頭を人差し指でぽり、と掻く。 「高井は俺に嫌われたいのか?」  俺の問いに、白目を真っ赤にした朝陽が嗚咽を漏らす。 「き、嫌われたくはないです……。でも、僕は最低なことを、」  俺を傷つけたという認識はあるらしい。ということは、分かっていてああすることを朝陽が選んだってことだ。 「んーとさ。俺、朝陽がどうしてあんなことをしたのか、何も知らないんだよな。それに俺は元々怒ってはいないよ。悲しくはなったけど」  怒ってないことを分かってもらう為、にこりと笑いかける。泣いているせいか、は、は、と苦しげな息遣いになりつつある朝陽が、白くなるほど唇を強く噛み締め――。  叫んだ。 「どうしてっ! どうして誉さんはっ、こんな酷いことされても僕に優しくできるんですかっ!」 「朝陽……」  そんなこと、決まってる。ひとつしかないじゃないか。  微笑みながら、朝陽にちゃんと伝わりますように、と祈りながら口にした。  あの日伝えようと思って、言えなくなってしまっていた言葉を。 「そんなの、朝……ゴホン、高井のことがやっぱり好きだからに決まってるだろ」  俺の言葉に、目をこれ以上はできないという大きさまで見開く朝陽。唇はわなわなと震え、とめどなく流れる涙のせいでぐちゃぐちゃになっている。この半月見せていた無表情とは程遠い、俺がよく知る表情豊かな以前の大型わんこ系の顔だった。  朝陽が、掴んだ俺の手に縋りつく。 「ほ、誉さん……っ」 「うん?」  俺は今、あんなにも伝えるのに悩んだのが馬鹿馬鹿しくなるほど何の抵抗もなく伝えられて、ホッとしていた。そうだよ、俺は何を怖がっていたんだろう。朝陽の気持ちが俺に向いていなくとも、俺の気持ちは何ひとつ変わらないのに。  俺は朝陽が好きだ。ただの可愛い後輩だと思っていた頃から、振られて散々泣いた今になっても。  朝陽が、えぐ、えぐ、と声を震わせながら、泣き声で懇願する。 「誉さん……もう一度、朝陽って呼んで、下さい……っ!」 「……いいのか?」  目を逸らさずに尋ねると、朝陽が小刻みに幾度も頷き返してきた。 「た、高井と呼べなんて、言いたくなかった……! 誉さんの声が、ずっと聞けなくて……! ヒック、寂しかった、毎日死にそうに寂しくて苦しくて……っ!」 「朝陽……」  朝陽が、膝を擦ってにじり寄る。 「毎日オメガの匂いが臭くて、吐き気して、誉さんの匂い嗅ぎたくて、でも隣にいるのは俺じゃなくて……っ!」  そうだ、匂いについての件があったんだ。 「朝陽、それなんだけど――」 「誉さんの隣は僕の場所だったのに、僕の番は誉さんしかいないのに……っ」  はあはあ、と朝陽が身体全体で息をし始める。……あれ? なんか様子がおかしくないか? ていうかこいつ今、「僕の番」って言わなかったか。  俺の手の匂いを嗅ぐように鼻と口をぴったりとくっつけている朝陽の顔を覗き込んだ。 「おい朝陽、大丈夫か?」 「誉さんのうなじは、僕だけの……!」 「……えっ」  虚ろになった朝陽の目線が、ゆらりと揺れて俺のうなじ付近を見る。  すると。 「僕の……っ」 「お、おいっ!?」  朝陽の口が大きく開き、牙を剥いた。

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