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47 匂いの謎
朝陽に手首を引き寄せられる。
「わっ、朝陽!?」
バランスを崩して、朝陽の肩に顎をぶつけた。
「わぷっ!」
触れ合う箇所から、朝陽の高い体温が伝わってくる。こんな時だというのに、懐かしさと愛しさから胸が高鳴ってしまった。
「僕の番だ……っ」
熱に浮かされているような極小さな呟きが、朝陽の口から漏れる。
「朝陽、ま、」
まさかと思い、急ぎ顔を上げる。すると案の定、視界に飛び込んできたのは、瞳孔が開きかけている朝陽の赤ら顔だった。
これってまさか……ラットになりかけてる!? え、なんでこのタイミングで!?
「朝陽、しっかりしろ!」
掴まれていない方の手で朝陽の痩せてしまった頬をペチペチ叩いてはみたものの、虚ろな目は焦点が定まらないままだ。
拙い! このままじゃ、朝陽が公衆の面前でうなじを噛む奴だと思われるぞ! まさかこんな短時間で、再び俺のうなじの危機が訪れるとは……!
「誉さん……っ」
朝陽の熱い息が、首に吹きかかる。
俺は、咄嗟に怒鳴った。
「――待て!」
すると朝陽が「!!」と息を止め、本当にピタリと止まったじゃないか。おお、さすが大型系わんこ。
多分、俺の声は聞こえている。一字一句、理解しやすいよう、はっきり発音して伝えることにした。
「朝陽、噛ませてやりたいのはやまやまだが、場所が悪い」
「は……っ、は……っ」
ぼんやりと俺の方を見ている朝陽に、語り続ける。
「朝陽、少しだけ耐えてくれ! 移動しよう、な?」
「う……っ」
辛そうに、それでも何とか頷いてくれた朝陽。俺は身体をくるりと回転させると、俺の手首を掴んだままの朝陽の腕を首の後ろに回した。
「ほら、立ち上がろう」
「は、はい……」
「せーの!」
勢いをつけて一気に腰を上げる。重くはあったけど、朝陽なりに頑張ってくれたらしく、何とか二人で立ち上がることができた。
すぐ隣にピッタリとくっついている朝陽を励ます。
「俺に体重かけていいから。とりあえず医務室に――」
「――誉!」
「うん?」
振り返ると、瀧が会社携帯を手に持ちながら、こちらに歩み寄ってきている最中だった。
笑顔の瀧が、エレベーターの方を会社携帯を持っている手で指す。
「第三の方の部長と話してたんだけどさ、高井の様子がヤバいって伝えたら、いいから二人とも今日はもう帰れって」
「え? そりゃ助かるけどでも申請が――」
それに、朝陽は第一営業部に所属だけど一緒くたでいいんだろうか。そんな疑問が顔に出ていたのかもしれない。
瀧が破顔した。
「誉は相変わらずくそ真面目だな! 今さ、高井が投げた爆弾で、上も営業も大騒ぎになってんだよ! もう今日は仕事にならないだろうし、後日申請すればいいって!」
「爆弾って」
仕事にならない? そんなに大騒ぎになるってどんな爆弾を投げたんだ、朝陽。
首を傾げていると、瀧がフ、と柔らかい笑みを浮かべる。
「それは後で高井本人にじっくり聞いたらいいよ。今ヘルプを頼んで――あ、来た来た」
「え? 来たって何が……あ」
エレベーターホールの方向に向けられた瀧の目線を追う。と、向こうから、安西を先頭にして第三営業部の面々と、第一営業部の社員たちがこちらに走ってきている姿が見えた。
安西と、第一の若そうな社員がそれぞれ手に持っているのは、俺と朝陽のコートと鞄だ。
「こっちこっちー!」
瀧が駆け寄ってくるみんなに手を振りながら近付いていくと、突然朝陽が後ろから俺の身体に腕をきつく絡ませてきた。ぐえっ。
「あ、朝陽!? どうした!?」
朝陽が、獣のような唸り声を出す。
「誉さんは僕のだ……っ!」
と、瀧が両手を「降参」とばかりにパッと上げ、へにょりと笑った。
「だーかーら、俺に威嚇フェロモン剥き出しにするなって! お前のそれ、滅茶苦茶怖いんだよ!」
俺たちから距離を取るように、じり、と一歩遠ざかる瀧。威嚇フェロモン。これまで、瀧の口から何度か聞いた単語だ。
「瀧? 威嚇フェロモンって、」
瀧がもう一歩下がりながら笑顔で答える。
「あはは! 威嚇フェロモンってのは、アルファ同士で相手を威嚇したり牽制したりする匂いのことだな!」
瀧が朝陽に向かって顎をしゃくった。俺の耳元からは、しがみついた朝陽のお前何の動物だ、みたいな唸り声が響き続けている。本当に大丈夫か、朝陽。
「そいつさ、誉に自分の匂いたっぷり付けて、他のアルファが近付けないようにしてたんだよ。あんな匂い付けられてる奴のアルファなんて、絶対執着ヤバい独占欲最強の奴確定だからなー」
「えっ!?」
匂い匂いって言ってたのって、そういう意味だったのか!? というか、ヤバい奴確定ってどういうことだ!?
瀧が若干顔を引き攣らせながら、駆け寄ってくるみんなに「早く来い」とばかりに手を振りつつ続ける。もう一歩下がって行くのを見て、もしや朝陽の威嚇フェロモンのせいか? と気付いた。どれだけ威嚇してるんだよ、朝陽の奴。
「なんだけど、高井とあのクソオメガが一緒にいるようになっても、あのクソオメガからはそいつのフェロモンが一切香ってこなかった訳」
「え、そうだったのか?」
朝陽と瀧の両方を交互に見ながら聞くと、朝陽が小さく頷き、瀧がニヤリと笑いながら大きく頷いた。
「そうそう! だから高井が何か理由があってあのクソオメガといるだけで別に執着なんざしてないっていうのは分かってたんだけど、自分で離れておいて人に威嚇してくるなんて、ムカつくはムカつくじゃん?」
「は、」
おい。分かってたってどういうことだ――と思って、瀧が何度か俺に話をしようとして俺自身が拒絶していたことを思い出す。
「だから腹いせに、俺のフェロモンを誉にゴシゴシ塗りつけてやってたんだよなー。そうしたら、高井の威嚇フェロモンが遠くにいてもすげー匂ってくるくらい濃くて、怖いのなんのって! 実は毎回、ヒヤヒヤしてたりして!」
「グルル……」
朝陽が唸り声で返した。え、え、ちょっと頭がついていってない。つまり、瀧は朝陽が福山結弦に全く気がないと最初から分かっていたってことか?
愕然とした。
「嘘だろ……じゃあ俺が散々悩んだのって……」
瀧が「てへ」とでも言いそうな茶目っ気のある笑みを浮かべ、頭を掻いた。
「ごめんなー誉。辞めるって言い出してからは慌てて教えようとしたんだけど、ほら、誉に聞く気がなかったじゃん? だから許して?」
なんてこった。
瀧が、にっこりと目を細めながら言う。
「……だからさ、俺が誉のことを好きっぽく匂わせてたの、あれ全部冗談だから」
「瀧……」
「だから! ちゃっちゃと仲直りしろよな!」
瀧の言葉に、言葉を詰まらせる。じゃあ何でお前の目がちょっと潤んでいるんだよ。あれだけ必死に弁明していたことが本当に全部冗談だったとは、俺には思えない。それだけの濃い時間を、もうひとりのこの可愛い後輩と過ごしてきたから。
――だけど、それを問い質したところでどうする。たとえ瀧が俺を少なからず好きになってくれていたとしても、俺はそれに応えることはできないんだから。
「……ああ。ありがとう、瀧」
笑顔で伝えた直後、安西たちが到着する。
「ほまちゃん! なんかすっげーことに巻き込まれてたみたいだけど、とりあえず今は帰りな!」
三十路後半腐女子社員が、悟ったような微笑で後を続けた。
「そうね。両片思いのジレジレもいいけど、ざまあの後は深く結ばれてハピエンが王道だし」
「え……と?」
何を言っているのかちっとも分からなかったけど、あっという間に大勢に囲まれて、尋ねられない。
「表にタクシー捕まえてあるから! ほら、鞄持ってってやるから行こうぜ!」
「本当お疲れ様! 安田くん、仕事は私たちに任せて!」
みんなが口々に言ってくれて、思わずジンとしてしまった。
瀧の、「自分がどれだけ好かれてるのか、もうちょっと自覚していいと思うけど」と言われたことを思い出す。俺がこれまでやってきたことは、無駄じゃなかったんだ。事なかれ主義にしかなれないと思っていた自分が認められた気がして、少し誇らしく思えた。
そうだ、瀧は? と振り返り瀧を探す。
……腕で瞼を覆っている瀧の姿が、遠目に見えた。
その様子に、きゅ、と胸が痛くなって、唇を噛み締める。
――瀧、ありがとうな。
心の中で瀧に向かってもう一度礼を言うと、前に向き直った。
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