48 / 57

48 朝陽の過去

 第三営業部の仲間の誘導で、社屋の前に停められていたタクシーに乗り込む。  と、朝陽は俺を「誰にも渡すもんか」とばかりに膝の上に抱き上げ、きつく抱き締めてしまった。ぐえ。 「朝陽? あのさ、ちゃんと座らないと」 「無理……離せないです……っ」 「お客さん、どちらまで?」 「あ、あの、△◇町のレジデント△◇で」 「畏まりました」  朝陽のマンションの住所を告げると、タクシーが発進する。 「朝陽、危ないから」 「嫌です……っ、誉さんの匂いが離れたら離れたくなくて襲う気しかしない……っ」 「……」  俺は無言で朝陽の首に腕を回すと、しがみついた。できる限り、リスクは避ける。それが俺の主義だ。  はっきり言って苦しいし不安定だし運転手さんの時折投げかけられる視線が痛いけど、仕方ない。それに、先ほどから朝陽の身体が小刻みに震えている。相当努力してラット状態に陥ることに耐えているだろうことは、この様子からも分かった。  俺は福山結弦とは違って、外でストリップをする趣味はない。俺ら以外の人間が存在するタクシーの中で事に及ぶことがないようにするには、何としてでも朝陽に頑張ってもらうしかなかった。  ラットで思い出す。そういえば、瀧はあのオメガの匂いを嗅がされてラットになりかけたものの、緊急抑制剤を飲んで事なきを得たじゃないか。  アルファだったら、いざという時の為にひとつは持っていると聞いたことがある。実際、瀧もちゃんと持っていた。 「朝陽。お前、抑制剤は持ってるか?」  朝陽が苦しそうに首を横に振る。 「いつもはスーツの上着のポケットに……でも何故かさっき、なくて……っ」 「……あー」  何となく、これも福山結弦のせいな気がした。わざわざ発情剤を飲んでヒートトラップを仕掛けたくらいだ。万全を期す為に、朝陽の抑制剤をくすねることくらいはしてそうだ。  だけど、今それを追求したところで、答えを知る相手はここにはいない。むしろ居てほしくない。というか、できればもう二度と会いたくない。  とにかく、何とか朝陽の理性を留めさせなければいけない。だけど、俺は生粋のベータだ。正直言って、アルファの生態はさっぱり分からない。辛そうな朝陽には悪いが、朝陽本人に聞く以外なかった。 「――なあ朝陽。抑制剤がない場合、どうしたらラットを抑えられるんだ?」 「はあ……はあ……、ええと……っ」  朝陽の息遣いは本当に辛そうで、見ていられない。できる限り何とかしてやりたいのはやまやまだけど、方法はあるんだろうか。  と、朝陽が物騒な発言をした。 「僕を気絶させるか……っ」 「おい」  身体を起こして、朝陽を軽く睨みつける。朝陽は汗でびっしょりになっている端整な顔を、少しだけ綻ばせた。全く。 「後はとにかく、はあ……、何度か出すか……っ」 「出す」  ……出すって何をだ。まさか、俺が駅のトイレで朝陽にシたようなことか? アレをここでは……うん、無理だな。 「他は?」 「はあ……っ、後は、気持ちが萎えるような、会話を……っ」 「それは……」  難しいことを言う。さてどうしようかと迷っていると、俺のうなじに鼻梁をゆっくりと擦り付けている朝陽が、「はー、はー……」と辛そうな息を繰り返しつつ、囁いた。 「丁度いい話題が、あります……っ」 「え? 丁度いいって」  それはいいのか悪いのか。つい戸惑っていると、朝陽が話し始める。 「誉さんに、ずっと話さないといけないって思っていた、僕の過去の話、です……」 「朝陽、それは」  朝陽は苦しそうに笑うと、言った。 「聞いて下さい……お願いします。今ここで誉さんを襲って、他の男に誉さんの裸を見られたく、ないです」  俺の裸。他の男って運転手さんのことだよな? 「……コホン」という咳払いが前から聞こえてきた。慌てて、朝陽に「コラッ」と小さく注意する。 「わ、分かった。萎える話、聞くから」 「はい……幻滅、させるかもですが」  朝陽の言葉に、ううん、と首を横に振った。  瀧が俺に気付かせようとしていた、朝陽の何か。そして、朝陽が嘔吐していた姿に既視感を覚えた原因。全ての謎の答えは、恐らく朝陽が今から語ろうとしている話の中にある。 「俺はどんな朝陽でも受け入れるから」 「誉さん……」  朝陽が、安堵したような小さな笑みを浮かべる。 「僕の家族構成の話から、になるんですが――」  そして朝陽が語り始めたのは、彼がずっと心の奥底に抱えていた闇の根本原因となる過去の出来事だった。 ◇  朝陽の家族は、朝陽以外全員ベータだそうだ。  だけどお父さんの実家は違った。父方のお祖父さんはアルファで、お祖母さんはオメガ。その両親から生まれた朝陽の伯父さんもアルファで、弟である朝陽のお父さんだけがベータという家族構成だった。  お祖父さんは元々会社を経営していて、現在は伯父さんが後を継いでいる。あのマンションを所有しているのも、その伯父さんなんだそうだ。  朝陽のお父さんは「僕は平凡でいいかな」という絵に描いたような優しいお父さんで、これまた穏やかなベータのお母さんと出会い、結婚。家業には関わらずに普通の中小企業に務め、ごく一般的な生活を送ってきた。親族内で争い事を避ける為だったんだと思う、と朝陽は語る。  その後、伯父さんのところに息子が二人誕生する。朝陽よりは少し年齢が上で、子供が幼い頃は、頻繁に行き来をしていた。従兄弟二人の性別がベータと判明しても、まだ仲良くやれていた。  小学校高学年の時、バース判定を行い、朝陽がほぼアルファであることが間違いないと分かるまでは。  伯父さんの奥さんは、「アルファに会社を乗っ取られたら」と疑心暗鬼になってしまった。母親に影響されて、仲がよかった従兄弟たちも、朝陽を「乗っ取る奴だ」と見做すようになっていく。そんなつもりは毛頭ないと朝陽のお父さんも朝陽も話したものの、一度できてしまった(しこり)は日頃は目立たなくとも残ってしまった。  だから朝陽の家族は、関わり合うことを避けるようになった。 「そうなのか……なんだかちょっと悲しいな」 「僕が争いの種になるのは、僕も嫌だったので……。従兄弟たちは大きくなるにつれて、僕への当たりも強くなってましたから……僕はよかったですよ」 「ん、そっか。ご両親が朝陽を守ってくれたんだな」 「はい……、感謝、してます」  中学に上がると、朝陽の外見は徐々にアルファ然としてきた。だけど中身は本人曰く「ただの子供」で、アルファとしての自覚も芽生えておらず、実際に精通もまだ迎えていない、静かに本を読むのが日課の大人しい少年だったという。  お父さんは身近にアルファがいたけど、本人はアルファではない。朝陽以外が全員ベータで、日頃付き合いのある近所の人たちもベータばかり。そんな環境のせいもあったんだろう。朝陽も家族も、第二性について深く考えることなくのんびり過ごしていた。  そんなある日、三歳年上のお姉さんが、高校の女友達を家に連れてきた。お姉さんは明るくて面倒見がいい姉御肌タイプ。連れてきたお友達は、学校でひとり浮いてしまっている大人しい地味な女の子だった。  お友達の女の子は、どことなくいい香りがしていた。まだ性に目覚めていなかった朝陽は、同じ読書趣味を持つ女の子と少しずつ打ち解けていく。  そして、事件は起きた。

ともだちにシェアしよう!