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49 トラウマ

 その日、朝陽の家に両親はおらず、朝陽とお姉さん二人がいる家に、お姉さんと遊ぶ約束をしていた女の子が訪ねてきた。  暫くお姉さんと女の子はお姉さんの部屋で会話をしていたが、お姉さんは「飲み物がなかったね。ちょっと買ってくるから朝陽が相手しててくれる?」と女の子を置いて近くのコンビニに出かけてしまう。  女の子と朝陽は、どの小説がよかった、などと話に花を咲かせた。ところが、突然女の子の息遣いが荒くなってくる。いつも嗅いでいるいい香りが、更に濃くなっていくのが分かった。  朝陽の話に、ピンとくる。 「まさか、ヒート?」 「はい……でも僕、まだその時は精通を迎えてなくて、アルファとしては全然未熟で……」  辛そうに息をひとつ吐き、朝陽が先を続けた。 「未成熟の状態でオメガのヒートの匂いを思い切り嗅いでしまって、パニック状態になってしまったんです」 「え……」  朝陽はアルファではあるけど、まだ番うには幼い。強すぎる匂いに酔ってしまい、大混乱の中、とにかくこの場から逃げようと部屋の外に向かった。  すると背後から、女の子が朝陽に襲いかかったのだ。  女の子は朝陽を押し倒すと、焦点の合わない目で朝陽の股間を剥き出しにする。恐怖で完全に固まってしまった朝陽の勃たない陰茎を扱き、口に頬張り、何とか勃たせようとした。  とんでもない量のオメガのフェロモンを浴びせられながらも、朝陽は悲鳴を上げつつ抵抗した。だけど、大人に近い身体の女の子の前に、まだ背の低かった朝陽は抗えず。  さっきまで大人しくて優しいお姉さんだった女の子の女に豹変した姿に、まだ性とは何かすらろくに認識していなかった朝陽の恐怖はピークに達してしまった。  次に気が付いた時には、病院のベッドに寝かされていたという。 「後で聞かされた話だと……、パニックだと思っていたのは、未成熟なりにフェロモンの影響を受けてラット状態になっていたそうで……」  朝陽の説明に、俺の前でラット状態になってしまった朝陽がジャグジーの中で口走っていた言葉を思い出した。 「まさか、二度となるもんかって思ってたラットの一回目って……」  朝陽が、疲れたような小さな笑みを浮かべつつ頷く。なんてこった……最初の性欲の爆発が、無理に引き出すようなそんなものだったなんて。  何も言えなくなり朝陽の頭を撫でると、朝陽が安堵の表情を浮かべながら瞼を閉じた。 「……未成熟だった僕は、ラット状態になってもアルファの欲求やフェロモンをうまく表に出すことができませんでした。体内に溜められた熱のせいで高熱が何日も続き、ホルモン剤治療を行い、ようやく解熱した時には――」  言葉を切る朝陽。じわり、と嫌な汗が背中を伝った。俺は固唾を呑んで、朝陽の次の台詞を待つ。  朝陽の口が、重そうに開いた。 「オメガのフェロモンを嗅ぐと恐怖に襲われて、嘔吐するようになってしまったんです……」  オメガの匂いが、朝陽の中で完全にトラウマになってしまったんだろう。福山結弦の近くにいる時の朝陽がいつも厳しそうな表情をしていたのは、俺のことを嫌がっていたんじゃなくて、ずっと吐き気を堪えていたものだったんだ。 「そういうこと、だったんだな……」 「はい……体も心も、オメガを受け付けなくなったんです」  タクシーがマンションのエントランス前に停車した。何とかここまでは、外で朝陽に襲われて破廉恥な姿を晒すことを避けられた。あと少しだ!  料金を支払い、先に降りようとする。と、朝陽が俺の腰に腕をガッと回して、そのまま横抱きに抱き上げながらタクシーの外に出ようとしてきたじゃないか。 「ちょ、歩けるのか!? 危ないぞ!?」  俺は咄嗟に二人分のコートと鞄を腕に抱える。 「誉さんは、絶対……落とさないです……」  もう声すらも虚ろになっている。限界が近そうだ。 「もう離したくない……やだ……」 「朝陽……」  フラフラの状態のまま俺ごと下車した朝陽は、俺の静止には従わず、よろめきながらもマンションの自動ドアを潜っていく。俺を支える手だけはやけに力強く、絶対に逃すまいという強い意志を感じた。  最後に朝陽に別れを告げられたエントランスホールのソファーの横を通り過ぎる。コンシェルジュのお姉さんが一瞬だけ目を大きく見開いた後、微笑を浮かべている横も、通り過ぎていった。  ぽつりと、朝陽が呟いた。 「僕……退院した後、満足に学校に通えなくなったんですよね……はは……」 「そうだった……のか」 「はい……第二性が目覚める時期で、小学校より生徒数が多かった中学校では、オメガもいて……。すれ違っては吐き、吐くのが嫌で抑制剤を大量に飲んで、飲み過ぎで吐いて……外に出るのが怖くなって、最後には行けなく、なりました」  壮絶な告白に、俺は言葉を失う。そんな酷い状態だったのに、一体どうやってここまで復活したんだろうか。 「高校は、通信制で……大学も、通信制にして……引き籠もり、だったから、姉は責任感じていて、両親も腫れ物に触るように優しくて、辛くて……っ」 「朝陽……話すのが辛かったら、もう、」  だけどそれには、朝陽は首を横に振った。 「話します……全部、全部話します……お願い、聞いて下さい……」 「朝陽……分かったよ」  フラフラとした足取りだったけど、何とか無事にエレベーターホールに到着する。上行きのボタンを押すと、既に一階にあったエレベーターに乗り込んだ。 「僕、ガリガリで、猫背で、だけど顔はアルファなのが恥ずかしくて、前髪で目を隠して、ベータに見えますようにって必死で祈って」  あまりにも切なすぎて、目頭が熱くなってくる。たった一度のヒート事故で、希望に満ち溢れていた未来を奪われてしまった朝陽。アルファなのが恥ずかしいだなんて、そんなに思い詰めてしまうほど、朝陽は苦しみ続けていたんだ。何ひとつ、朝陽は悪くないのに。 「で、でも、働かないと、ずっと家族に迷惑をかけてきたから……そう思って、勇気を振り絞って」  はあ、はあ、と荒い息を吐く朝陽。触れ合う箇所はじっとりと汗ばんでいて、朝陽の限界がかなり近いんじゃないかと思わせる。 「そうしたら、オメガを受け入れてない会社を調べた中に、うちの会社があって、企業説明会に、頑張って行って」  朝陽の声が、段々と泣き声に変わっていった。堪らなくなってきて、下唇を噛んで俺も涙を堪える。  ――ああ、そうか。そういうことだったんだ。  それは、絡まり合った紐が、ゆっくりと解けていく感覚に近かった。 「だけど、外は怖くて、途中オメガの匂いも何度か嗅いで、臭くて気持ち悪くて、無理だ、もう無理だって思ってた時……」  朝陽の瞳孔が開いた潤んだ瞳が、俺を真っ直ぐに見下ろす。エレベーターが到着すると、朝陽がぐらりと揺れながら箱から降りた。 「その時、誉さんが声をかけてくれたんです――」  全てが繋がった瞬間だった。

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