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50 宝物

 真っ赤な顔の朝陽が、俺を横抱きにしたままマンションの通路をヨロヨロ進む。  ふらつきながらも、何とか部屋のドアの前に到着した。朝陽の顔認証で、鍵がカチリと開く。何が何でも俺を下ろしたくないのか、手と足を使って器用に外開きのドアをこじ開け、中に入った。  玄関で、朝陽が乱雑に自分の靴を脱ぎ捨てる。てっきりこの場で俺を下ろすのかと思いきや、そのまま一歩踏み出した。あれ? と思い、二人分のコートと鞄を腕の中に抱えたまま、朝陽を見上げる。 「待て、俺も靴――」 「はあ……はあ……っ」  朝陽のこめかみからは汗が伝い、形のいい唇は苦しそうに開かれたままだ。焦点が合っているとは到底思えないほど、目線は前方をフラフラと彷徨っていた。 「あのな、俺は土足――」  と、それまで荒い息だけを吐いていた朝陽が、うわ言のように囁く。 「早くあれを見せなくちゃ……」 「え? 見せる? 何を」 「もう秘密は嫌だ……」  ……会話がいまいち通じてないな。  俺には敬語を使う朝陽が砕けた話し方をしていることからも、かなり朦朧(もうろう)としていることが窺える。  靴はこの際、下ろされた時点で自分で脱ごう、うん。  玄関を上がり、廊下を進んでいく。と、懐かしの朝陽の寝室のドアが近付いてきた。やっとここに帰ってこられたという、感動にも似た安堵を覚える。  何故なら、この家に連泊している間、お恥ずかしながら俺の居場所は殆どがこの寝室だったからだ。原因は単純明快。朝陽が終始俺をベッドに縛り付けていたことと、抱かれまくった後は俺の腰が死んでしまって動けなかったせいだ。  まあとにかく、一番慣れ親しんでいる場所だってことだ。  朝陽はぼんやりとした目で俺を見ると、切々と訴えてきた。 「誉さん……僕、あの時、誉さんに親身になってもらえて、本当に嬉しくて……」  俺は無言でひとつ頷き返す。朝陽はそんな俺を、愛おしそうに窮屈に抱き寄せた。 「僕が吐いても嫌な顔をしない優しい人が世の中にいたんだって……しかも宝物までくれて、僕に笑いかけてくれる顔がまた見たくて、これでさよならは絶対嫌で……」  朝陽の言う、宝物。かつての俺が朝陽に渡した物と言ったら、アレしかない。たった一度会ったきりの俺が与えた物を、朝陽はずっと大切に持ってくれていたんだ。  まさか二年前のあの学生が朝陽だったなんて、考えもしなかった。俺が気付かず呑気にしている間も、朝陽は俺の隣でにこにこしながら、きっとずっと言い出すタイミングを見計らっていたんだろう。考えただけで、切なくなってくる。  俺にとっても思い出深いあの出来事は、朝陽にとっては遥かに重要で衝撃的な事件だったんだ。これまでの自分を変えようと思えたくらいに。  俺が咄嗟に取った行動が、偶然にも朝陽に勇気を与えていた。事なかれ主義で軋轢を避けて生きてきたこの俺の行動が、だ。  ――なんだ。俺のこの性格も、誰かの為になれるんじゃないか。朝陽を救えたなら、俺の生き方だって別に自分で思っていたほどは悪くないのかもしれない。  そう考えたら、ずっとどこかで卑屈に思っていた自分のことが、少し誇らしく思えてきた。  朝陽が、息苦しそうに続ける。 「もう一度会う時は、こんな情けない姿じゃなくて……頑張ったねって褒めてもらいたくて、僕のことを好きになってほしくて……。だから怖かったものにも、向き合う勇気が出て」 「――ああ」  今度は、声に出して答えた。ちゃんと聞いてるよ、分かってるよ、という意味を込めて。 「筋トレを始めて、猫背を直して、ちゃんとご飯も食べて、堂々として見える喋り方も沢山練習して、頑張って、本当に頑張って」 「ああ……ああ、頑張ったな、朝陽」  俺の瞳に溜まっていた涙が、とうとう決壊する。ぼたぼたと、腕の中のコートに水滴が落ちては吸い込まれていった。朝陽の果てしない努力を考えるだけで、涙は溢れて止まらなくなった。朝陽は全然情けなくなんかない。ちゃんと自分と向き合って、本当に頑張ったんだ。  自分の夢を叶える為に。 「資格も検定も絶対この会社に入るんだって沢山取って、面接も怖かったけど耐えたら内定貰えて、ようやく誉さんに会えるって嬉しくて……」 「ぐす……っ、ああ、会えたじゃないか……っ」  半開きになっていた寝室のドアを、朝陽が肩で押す。カーテンが開かれたままの日光が差し込む部屋は以前から様変わりしていて、一瞬これが同じ部屋かと疑ってしまった。  常に綺麗に整えていたのに、今は布団がぐしゃぐしゃに丸まっている。ウォークインクローゼットの扉は開かれたままで、枠部分にずらりとハンガーで吊り下げられた服は――。  全部、朝陽と一緒に買ってこの家に置いていた、俺の服だった。  胸が詰まる。一体どんな気持ちでこの部屋で過ごしてきたのか。朝陽の心の叫び声が聞こえてくるような光景だった。  朝陽が、ぺしょりと耳が垂れた犬のように項垂れる。 「……だけど、お礼、言いたくても、あれが僕だって言えなくて……。ずっと会えない間も好きで、再会したらもっと好きになって、もうどうしようもないくらい貴方を手に入れたくて、でも情けなかった僕を知られるのが恐ろしくて……っ」  ベッドの上に視線を移す。枕元には、蓋が開いた空の宝箱と――。  沢山握り締めたんだろうか。しわしわの、記憶にある黄色いネクタイが置かれていた。 「これが、僕の宝物、です……。やっと、見せられた……っ」 「朝陽……」  朝陽の、『宝物』。朝陽の努力も、苦悩も、全てを見てきた物だ。  目を凝らしてよく見る。枕には、黒ずんだ染みがあった。……沢山泣いたんだろうか。俺のネクタイに縋りながら。  胸が一杯になった。

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