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おまけ 瀧くんの恋の予感

 特別枠採用のオメガに振り回され、まさかのベータ男性である誉に不覚にも惚れてしまって、尚且つあっさり失恋までしてしまった激動の日々から、約ニヶ月が経った。  半月お世話になった第三営業部から第一営業部に戻ると、古巣に戻った安心感と同時に、隣にもう誉がいない事実に言い表しようのない虚無感を覚える。  だけどそれは、俺と入れ替えで第三営業部に舞い戻った高井だって一緒だ。誉は人事にスカウトされてしまったので、もう第三営業部の人間じゃない。  理由があったにしろ、あれだけ誉を傷付けた癖して、最後には誉を手に入れた高井は憎たらしくて仕方ない。だけど、ほんのちょっぴりだけザマアミロと思えて、スカッとした。  それに、高井は企業説明会のプロジェクトメンバーに入っていないけど、俺は入っている。つまり、企業説明会シーズンが始まった今、俺の方が誉と過ごす時間は長いってことだ!  ……まあ、俺は恋人じゃないけど。 「はあ……未練たらたら」  あんなどでかい執着を持ったアルファに捕まったら、もう二度と解放なんてされないのは自明の理。つまり俺のチャンスがゼロなのは分かり切ったことだ。なのに頭では分かっていても、ニヶ月経った今も心は全然納得してくれない。  つい先ほどショックな出来事もあったから、余計気分はブルーだった。  午前中の企業説明会の受付で、相変わらず物凄いアルファの執着の香りを纏った誉と、話す機会があった。その時、「実はさ」と言われたのだ。 「俺んちさ、俺は分からないんだけど、瀧の匂いが充満してるって朝陽がいじけちゃってさ。あまりにも凹むもんだから、匂いのするものは全部処分した上で朝陽のうちに今月から住んでるんだよな。なあ、アルファってそんなにすぐ誰の匂いか分かるものなのか? それとも朝陽のあれって嗅覚過敏かな?」  ……俺の匂い付き、全部捨てたの? いやさ、そりゃ高井は誉の恋人だけど、いくらなんでもそれはどうなんだよ? と思った。  だけど、誉があまりにも高井の嗅覚過敏を心配しているもんだから、文句のひとつも言えなくなり。 「んーまあ、個人差はあると思うけどさ。俺も他のアルファの匂い付けは分かるから、別に嗅覚過敏じゃないと思うよ」 「あ、そうなんだ? よかった! いやさ、これから段々暑くなってくるだろ? 汗とか色々と匂いが気になり始めるし」  ……高井なら、誉のどんな匂いだろうが「いい匂い」だって鼻先付けて嗅ぎそうだけどな。  誉の声が、半音低くなる。 「ほら……あいつ、オメガの匂いで悪酔いするだろ。だからもし俺の匂いで酔ったらってちょっと、な」  なるほどな。自分の匂いを嗅いで吐かれたらショックだもんな。まあ、俺は自分の匂いを擦り付けておいた思い出の品々が(ことごと)く捨てられたって事実にショックを受けてるけど。  でもなあ。俺は誉にやっぱりいい奴だって思われてたいんだよな。だって俺、誉の笑顔が一番好きなんだもん。 「ほら、誉の悪い癖がまた出てるぞ? 言っただろ、勝手にひとりで考え込んで結論出すなってさ」 「瀧……」  感動したように微笑みを浮かべる誉。くっそ、キラキラして可愛いじゃないか。  馬鹿な俺は、いい人ヅラして誉に笑いかける。 「何か不安に思ったら、直接高井本人にぶつけろよな。それが円満にいくコツだって」 「……ん、ありがとな、瀧」 「どーいたしまして」  へらりと笑うと、「じゃあ俺あっちだから」と手を上げてその場を立ち去った。  ……あーあ。  ちょっぴり滲んできた涙を、指でそっと拭い取った。 ◇  午後の受け入れが始まる。  俺が会場内にいると注目されすぎて学生が集中しないからと、廊下や他の場所に学生が残っていないかの確認をする係を割り当てられていた。誉は受付だから、夕方に終わるまで会えない。コンチクショウ。  体育館にもトイレはあるけど、非常に混み合うので社屋一階のトイレまでは開放している。誉曰く、ここから体育館まで抜ける道が分からず迷う学生が毎年必ずいるんだそうだ。  歩きながら、学生らしき男女に「企業説明会が始まりますよ、移動をお願いします」と声をかけていく。  エントランスホールにいた学生がほぼ移動を開始したのを確認すると、廊下の奥にあるトイレ方面へ向かった。  ここが二年前に誉と高井が出会った場所だと思うと、何となく嫌だ。場所に恨みはないものの、誉の話を聞いて以降、今日までここのトイレに立ち寄ることはしていなかった。  自分がちっとも誉を忘れられていない女々しさに我ながら呆れてしまうけど、アルファっていうのは惚れた相手には執着する生き物なんだ。アルファとしてのプライドはとうに捨てたつもりだけど、習性までは捨てられない。特に俺は庇護欲が強い方らしいから、守りたいと思った誉に対する執着心をなくすのには、相当苦労しそうだった。なんなら、今でも守りたいと思っているくらいだから。  女子トイレの前に来る。中は点灯されていなくて暗いままなので、こちらはオッケー。次に、奥の男子トイレに向かった。こちらは電気が点いている。 「企業説明会にお越しの学生の方、いらっしゃいますかー? 受付が始まりましたよー」  と言いながら、中を覗き込んだ。すると、ふわ、と仄かに甘い香りが鼻孔を擽る。 「え?」  まさかオメガか? いや、でもその割には随分と弱いから、香水か――?  視界に最初に入ってきたのは、黒髪のスーツ姿の後ろ姿。背は誉よりも低そうで、華奢な輪郭が少年っぽさを感じさせる。 「あっ、すぐ行きます!」  髪の毛を濡らして撫でつけていたらしい青年が、鏡越しに俺を見た。手をぱっと離すと、うなじを隠す長さの後ろ髪がピヨンと跳ねる。 「あーっ! また跳ねたっ!」  一見、特徴のないどこにでもいそうな細身の青年。だけどくっきりとした二重の瞳にちょっとツンと上がった鼻先が、跳ねてしまっている襟首の髪の毛とよくマッチしていて――可愛いな、と思ってしまった。    くすりと笑う。 「なに、跳ねてるのが直らないの?」  誉の家に押しかけていた時、毎朝誉が頑張って伸ばしては途中で諦めていた姿を思い出した。……可愛いと思ったのは、髪の毛のせいかもしれない。 「そ、そうなんです! もう、いっつも左から右に跳ねちゃって……! あーもう、どうしよう……っ!」  誉もそうだけど、この子のも別に気にするほどのものじゃない気がする。  一歩近付く。気が付いた時には、彼の後ろの髪の毛に手が伸びていた。 「えっ」  青年が目をまん丸くして固まっている。しまったと思ったけど、もう遅い。胡散臭い笑みを浮かべたまま、続行した。  軽く梳かして他の髪に混ぜてやると、跳ねはすぐに目立たなくなる。 「大丈夫大丈夫。こうして流しておけば目立たないから」 「ひえっ!? わ、あ、ご心配かけてすみませんっ!」  ぺこんと勢いよく青年が頭を下げるとまた一部飛び出たけど、言わないでいてあげよう。  そしてまた、あの甘い香りが一瞬だけした。 「うん、大丈夫だよ。妙に緊張するよね、説明会とかって」 「そ、そうなんですよね……へへっ」  荷物を大慌てで掻き集める青年を見て、あわてんぼうで可愛いなあ、なんて思う。……あれ? 「会場の場所分かる?」 「えっあっ、ど、どっちでしたっけ!?」 「……案内しようね」 「すみませんっ!」  再びぺこりと会釈すると、また髪の毛が跳ねた。吹き出しそうになったけど、我慢する。  ……シャツの中には、オメガのチョーカーはなかった。第一、まだうちの会社は大々的にオメガの採用は受け付けていない。例の事件があった後だから、導入はまだ先になるとみている。 「……君ベータ、だよね?」 「え? あ、そうです! せ、先輩はアルファですよね!? めっちゃ格好いいです!」 「あは、ありがとー」  何となく、そう何となくだけど気になって、胸ポケットから多めに用意しておいた名刺を一枚取り出し、青年に差し出す。 「これ、俺の名刺。もし困ったり聞きたいことがあったら、遠慮なく電話して?」 「えっ、いいんですか! 俺、御社に入りたいってずっと思ってて!」 「あは、そんなこと言われたら、何でも教えてあげたくなっちゃうなあ」  体育館の受付まで二人で来ると、青年は「俺、林田啓太です! あの、マジで電話しますから!」と元気よくお辞儀した後、ぱっと走り去って行った。  残ったのは、やっぱりどこか甘い薄い香り。  この匂い、なんなんだろう?  不思議に思いながら、他に学生が残っていないかの見回りにもう一度向かう。  気が付けば、落ちていた気分はすっかり回復していた。

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