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電子書籍一巻刊行記念SS 愛のスペシャルブレンド

 新入社員の怒涛のオリエンテーションシーズンが終わり、ほっとひと息つけるようになった四月末のある日のこと。  人事室に差し込む日差しが段々と強くなってきたことに唐突に気付かされた俺は、忙殺されて忘却の彼方に追いやっていた問題をふと思い出した。  そう、俺の汗臭についてである。  アルファな後輩である朝陽と恋人関係になってから、早いもので四ヶ月が経った。その四ヶ月は非常に濃いもので、別れたり拗れたりと一筋縄では行かず、紆余曲折あった上で雨降って地固まり、今の幸せがある。  その間、俺はそれまでろくに知らなかった第二性の生態について知る機会を得た。    生態その1。アルファはオメガの匂いを嗅ぎ取ることができるけど、逆はできない。  生態その2。アルファはアルファ匂いを嗅ぎ取ることができる。  生態その3。俺のようなベータはオメガとアルファ両方の匂いを嗅ぎ取れない。  つまりまとめると、アルファは非常に鼻がいいってことだ。  朝陽とこういった関係になったのは、昨年の忘年会の日から。つまり、夏場はまだ一緒に過ごしていない。  いや、勿論先輩後輩としては昨年の四月から一緒にいるんだけど、そういうことじゃないんだ。恋人になると同じ布団で寝るし、全裸であれこれするからもれなく汗だくになるじゃないか。  汗は掻いた時はまだ臭くないけど、時間が経つと臭いを発していく。で、朝陽は一度始まると一回で収まることは殆どないから、俺が疲れて寝てしまうかギブアップするまでは大抵続く。つまり、汗だくになった俺の臭いがまぐわっている内に段々と臭気を発していくんじゃ……? という懸念があった。それくらい、一度始まると長いんだよ、朝陽の奴は。  ちなみにひと晩の回数だけじゃない。同棲するようになってからというもの、朝陽は毎晩――そう、マジで毎晩、俺を限界まで抱こうとしてきた。というか抱かれた。  これは前回の年末年始を思い起こさせる頻度だ。  そりゃあ俺だって朝陽は可愛くて仕方ないし、寂しがりやの朝陽をヨシヨシして安心させてあげたいのは山々だ。  かといって、俺にも朝陽にも仕事がある。朝陽はむしろ肌艶もよくなってムカつくくらいだけど、俺の方はどうしたって疲労が蓄積するし、腰の重みだって増してくる。ようやく慣れてきた人事部で思わずうたた寝してしまった時には、同僚たちに「アルファの相手って噂以上に大変なんですね……」と同情顔で言われた時の恥ずかしさと言ったら、本気で穴を掘って中に閉じこもりたいくらいだった。  そんな訳で、仕事に支障をきたしているという大義名分を得た俺は、朝陽に宣言した。「翌日休みの日の場合のみ、複数回可」と。  これは、最初は翌日仕事の場合は抱くのを禁止にしようとしたら、本気で泣かれてしまい譲歩した結果だ。つまり、平日に抱き潰されることはなくなったけど、毎日喘がされてることに変わりはないってことだ。  そして、この一回がねちっこくて長くなった。「だって、イッちゃったら終わっちゃうじゃないですか。本当ならずーっと誉さんの中に入っていたいんです。だから僕、限界まで我慢しますね!」なーんてあの大型わんこなキュルンとした瞳で見られたら、早くイけなんて言えっこないじゃないか。  俺は、自他ともに認める波風を立てない穏便派。人との衝突を避けるのが俺だからな。  結局、「……ん」という肯定に聞こえなくもない相槌を打つことしかできなくて、ねっとり抱かれる毎日を送っていた。  ……話が脱線した。  要は、朝陽がイく回数に関係なくそれは丁寧に俺を愛してくれるせいで、俺だけ連続イキしたりする。すると汗だって掻くし、自分で風呂に入って身を清めようなんて気も置きないまま、半ば気絶するが如く眠りにつく。  朝陽は俺が出した液体は拭いてはくれるけど、「お互いの汗が直接肌でぬめる感覚って堪らないですよね!」とか変態度が高めな台詞を吐きながら、嬉しそうに身体を擦り寄せてくるんだよ。「んー、誉さんの汗、堪りません」なんて脇の下を舐められた日には、変な悲鳴が出るかと思った。  鼻のいい朝陽が、時間の経過と共に変質していく俺の汗臭を「臭い」と認識してしまったら悲しい。あと普通にベタベタしたままなのは不快なので何とかしたい。  あれこれ検討した結果、抱かれた後については一旦置いておくとして、仕事終わりに待ち合わせする時くらいは汗臭を抑えておこうという方針でいくことにした。  人事部の同僚たちにあれこれリサーチして、よく効くという無香料の制汗剤を入手。今日は外出もあったので特に念入りに噴射すると、朝陽との待ち合わせ場所に向かった。  俺と朝陽の仲は何なら全社員が知っているので、社内で待ち合わせるのはちょっとばかし恥ずかしさが残る。ということで、まだここなら、とエントランスホールにあるロビーの一角で待ち合わせしていた。  スマホを片手に待っていると、やがて息を弾ませた朝陽が太陽のような笑顔で駆け寄ってくるのが見えた。 「誉さーん! お待たせしました!」 「朝陽、お疲れ」  朝陽は俺の隣まで来ると笑顔のまま俺の顔を覗き込み――ピシ、と笑顔を凍りつかせた。 「朝陽? どうした?」  朝陽の顔から、表情がごっそりと抜け落ちていく。 「誉さん……どうして匂いを取っちゃったんです……?」 「ん? あ、分かるか? ほら、最近汗ばむようになってきただろ。今日は外出もあったから、人事部の人におすすめの制汗剤を聞いて――」 「制汗剤!? 僕と誉さんの混じり合った匂いが消えてるじゃないですかっ!」 「は?」  混じり合った匂い。社屋内ではあまり大っぴらに言うべきではないようなワードが、朝陽の口から飛び出してきた。  じわりと涙目になってきた朝陽が、俺の両肩を掴んで前後に揺さぶる。 「僕のフェロモンまで消えちゃってるじゃないですか! 誉さんは僕のものなのに、僕の匂いを纏ってないなんて……ッ!」 「――あ、そういうこと!?」  しまった。どうも、アルファが自分の番に纏わせる匂いまで消してしまっていたらしい。恐るべし、おすすめの強力制汗剤。  朝陽が俺を抱き締めて、声を震わせた。 「誉さん、僕の誉さんが僕の匂いを纏っていないなんて耐えられないんです、今すぐ付けさせて下さい!」 「え、ええと……」  今すぐ。マジか? と思って俺に縋りつく朝陽の顔を見上げると、半泣きの朝陽が言った。 「誉さん、お願いします……っ!」  俺は朝陽が可愛くて仕方ないんだ。朝陽に頼まれたら、嫌だなんて言える筈がない。 「い、家でなら……?」 「――はい!」  途端にパアアッ! と晴れやかな笑顔に戻った朝陽に抱え上げられた俺は、そのままタクシー乗り場に直行した朝陽に家まで連れ去られていった。  そして、今。 「――アッ、んぅっ」 「誉さん、誉さんっ」  家の玄関を潜った直後から脱がされ始め、廊下には俺と朝陽の服が点々と落ちている筈だ。ベッドに辿り着いた時にはもう互いに生まれたままの姿になっていて、朝陽にぎゅうぎゅうに抱き締められながら早速挿入されている。 「誉さん、僕怖かったんです……っ!」 「朝陽……ごめんな、そんなことになるとは思ってなくて……アッ」  いつもより性急にガツガツと求められているのを見て、本当に朝陽に余裕がなくなっていたことを実感した。まさかアルファのフェロモンまで消えると思わなかったんだよ。反省だ。  朝陽は痣になっている俺のうなじを甘噛みしながら、ブツブツと独りごちる。 「誉さんの冬の体臭は少なめだから僕の匂いが濃かったけど、ここのところ汗の匂いが増してきたから僕の匂いと混じり合ってアルファひとりでは作り出せない愛のスペシャルブレンドを纏ってくれていたのに……っ! 制汗剤なんてこの世からなくなってしまえばいい……っ!」  ギリ、と聞こえる奥歯が擦れる音が怖い。というか何だ、愛のスペシャルブレンドって。 「んっ、んっ、お前な、ひとりで匂いで遊んでたのかよ……んっ」  ふは、と笑うと、朝陽の眉尻が情けなく垂れる。 「だって……誉さんは僕のじゃないですか。だったら全世界に僕のものだって分からせたいじゃないですか」 「あは、俺にはその感覚は分からないなあ……ああっ」 「アルファは執着が強いんです。諦めて下さい」  真面目な表情で言われてしまった。  朝陽の顔を両手で挟み、笑いかける。 「お前が俺のことを大好きなのはよーく分かってるよ。匂い消しちゃってごめんな?」 「誉さん……っ! そうなんですっ、僕誉さんが世界で、いや宇宙で一番大好きなんです!」 「おまっ、わ、いきなり激しすぎ……っ、アッアッアッ――アアァァァッ!」 「誉さんが可愛いっ! 誉さん、誉さん!」  ――そして、事後。 「え? 誉さんの汗臭を臭く思うか? まさか思う訳ないじゃないですか! むしろもっと匂いが強くなってもいいなって思ってるくらいなんですよ!」  と朝陽にあっさりと言われたことで、ここ暫くの俺の懸念事項は、綺麗に解決されたのだった。 <おしまい>

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