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光の雫 p14

 ごくりと唾を飲みこんだ。  ここには確かに、悟さんのこの石にかける情熱というか、執念というか、むしろ怨念すら感じられた。  多数の石の合間から、悟さんが一つの指輪を取りだす。  シンプルな作りの指輪だった。それでも空中にかざして手首を使って回転されてみれば、滑らかな表面をしたリングと細やかにカットされた宝石が、キラキラと夕日を跳ね返してそれはそれは美しく光る。 「綺麗だろう。ルビーとピンクゴールド。祐香の好きだった組み合わせだ。ルビーはあいつの誕生石だしな」  頭の上から冷たい毒薬を一滴、ぽとりと垂らされたような気分だった。  赤い毒薬。  お母さんが微笑みながらぼくへと授けた、赤い毒の洗礼。  そんな幻影がぼくの脳裏に広がった。  水滴はぼくの髪の間をするすると滑り落ち、首筋を濡らしてから背中を通り抜け、アヌスまで到達する。その滴の通った皮膚から毒はぼくの体内に侵入し、ぼくをゆっくりと窒息させる。  現にぼくは息苦しくなっていた。  息を吸うのもままならなかった。 「いまから、俺の言うことには『はい』とだけ答えろ。分かったな」  悟さんの声が突然、残虐なものに変わる。  夕日が少しずつ翳っていた。刻々と部屋の照度がさがっていくにつれ、悟さんの顔も暗さを増して闇色に染まってゆく。それとともに室温もさがり、ぼくは肌寒さを覚えて全身が震えだした。それともこれは、さっきからとめどなく出てくる冷や汗のせいだろうか?  他に答えようがなく、ぼくは頷きつつ「はい」と答えた。  箱の中から、悟さんがもう一つ同じ指輪を取りだし、自分の指にはめる。それは左の薬指だった。  なにが始まるのかと唖然としていると、突然左手をとられたから飛びあがった。悟さんはテーブルの角をはさんでぼくの左隣りに座っていたのだ。  恐怖に身を竦ませていると、薬指に小さい方の指輪を嵌められた。悟さんが目を閉じ、ゆっくりと口を開く。 「汝は健やかなるときも病めるときも、死が二人を別つまでこの女を愛すると誓うか」  ぼくは激しく狼狽し、破裂するのではないかと思うくらいに心臓が拍動した。手は下からそっと握られているままで、冷たい汗で湿っている。 「はい」  悟さんが答える。  それは見ようによってはずいぶんと滑稽な光景だったけれど、むろんぼくは笑えず、ただ恐ろしい悪夢でも見ている気がして、ならば早く目が覚めてほしいと願った。 「汝は健やかなるときも病めるときも、死が二人を別つまでこの男を愛すると誓うか」  そう言い終えると、ぼくを握る悟さんの手に力がこもった。握りつぶされそうなほど痛かった。  ぼくは「はい」と答えねばならないのだ。  心に痛みを負いつくしているこの男の気持ちに寄り添って。  ぼくがお母さんの代わりになって。  そこまでは、かろうじて理解できた。  なのに唇は糊付けされたみたいに動かなかった。  しばらくして苛立ったように表情を険しくした悟さんが「言え」と呟いた。  言うことをきかなければ承知しないぞ――声の裏にそんな脅しを聞き取って、ようやくぼくは貼りついていた上唇と下唇を離す。 「…はい」  悟さんはほっと息をついたように見えた。 「では、誓いのキスを――――」  悟さんの目が開き、ぼくを視野に収める。  血の気が引いた。このまま闇の底へ引きずり降ろされると思った。  蛇に睨まれた蛙、  捕食者に掴まった力弱き生物、  それが悟さんの前でのぼくだった。  あれほど悟さんから強姦を受けていたにもかかわらず、ぼくは彼からキスを受けたことがない。  悟さんはぼくが憎くて憎くてしかたなくて、人形にしか思っていなかったのだからそれも当然で、また、人形にキスするほど彼は愚かではなかった。  だからぼくはありがたいことに宗太とファーストキスをすることができたのだ。振り返れば、あの地獄に似た日々の中で悟さんとキスをしないですんだのは、唯一といっていいほどぼくにとって救いだった。 「嫌…」  でも体は動かなかった。首を振ることさえできはしなかった。  悟さんの唇がぼくのに触れる。  生理的な嫌悪とかのレベルじゃない。  たった一度の儚い命からの、たった一つのかけがえのない魂からの、ぼくという存在の最奥、その憐れな感情から湧きだす全てを使って、ぼくはこの行為を憎悪した。  これは強姦以上のレイプだ。  唇は。  唇だけは。  宗太以外の誰にも触れさせたくなかったのに。  ぼくは絶え絶えの呼吸をしながら、悟さんの胸をどすんと突き飛ばした。もはや見た目にも分かるほど、ぼくの踵から指先、顎までが、がくがくと震えていた。  動きのおぼつかない手で、やっとの思いで、自分の指から指輪を外した。 「こ、これは、できません…。ぼ――ぼくは、…ぼくに、は」  ぼくには、宗太がいるから。 「ご、ごめん、なさい、悟さん…」  歯がかちかちと鳴って、まともに発声できない。震える手で指輪をテーブルへと戻した。  こんなことはもう続けられなかった。いくら、それが悟さんの希望であろうと。ただ単にお母さんの代わりになってやっていることであろうとも。やはり今ここにいるのは、ぼくであってお母さんではないのだ。  悟さんが凶暴に変貌を遂げる。うそ寒いくらいに恐ろしかった。  悟さんの手がテーブルの上の箱をがしゃんとはたいた。  箱はテーブルの上をすっ飛んで壁にぶつかり、大きな音を立てて落ちたかと思うと、中の真っ赤な宝石たちは血飛沫のように畳の上に舞い散った。  ぼくはすっかり腰を抜かして、その絶望的なありさまを茫然と目に映した。  バンっと頬が鳴った。同時にぼくは、その宝石たちと同じように畳へと叩きつけられた。  般若の顔と化した悟さんがぼくの上に馬乗りになる。続けざまに、ばん、ばん、ばん、と両手を使ってぼくの頬を平手で打った。 「――あ…、――や…、――やめ…」  打たれながらも、ぼくは必死でなにかを告げようとした。  頬の痛みというよりは、少しずつ殺される感覚の方が勝っていた。  けれど頭の片隅でぼくはしっかりと感じとっていた。  悟さんは本気を出して殴ってはいない。  確かに打擲の一つ一つはたまらなく痛いけれど、きっと赤く手跡がつくだろうけれど、内出血や腫れたりはしない。それくらいの手心が加えられていることをぼくは覚っていた。 「なんで、お前は…! なんで、なんで…!」  悟さんが声をつまらせる。  なんでお前は言うことを訊かないのだと、怒っているのだろうか。  それとも。 『なんで、お前は祐香じゃないのだ?』  そう、嘆いているのか。  頬を何度も張られながら、左右に顔をぶんぶんとはたかれながらも、ぼくは目を見開いてそんな彼の顔を瞬時瞬時、脳裏に焼きつけていた。  悟さんは泣きだしていた。すっかり細くなった頬を、しとどに涙で濡らしていた。  やがて、はあはあと肩で息をついて打擲をやめた彼は、ぼくの首に手をかける。一瞬のためらいもなく、その指にぐっと力が入った。 (ああ――。ようやくだ)  ぼくは、不思議と安堵する。  ようやく、終わった。  これで、ようやくぼくと悟さんのなにもかもが終わる。  これでようやく、ぼくたちは真に開放されるのだ。  そう思って目を閉じる。抵抗する気なんか端からなかった。  すぐに喉が詰まり、息が苦しくなった。まもなく視界が白んだ。  ――――と、その時。  悟さんの手が離れ、自動的にごぼっと咳をしたぼくは息を荒げ、酸素を欲した体が勝手に呼吸を貪り始める。  突然、ふわりと悟さんに抱かれた。驚くまもなく、耳元ですすり泣きが聞こえてくる。  ぼくの体を上から覆い、ぼくの首元に頬を埋めた悟さんは肩を震わせ、嗚咽を噛み殺しながら泣いていた。驚きのあまり、ぼくの体は震えすら止まって死体のように固まった。 「祐香…! 祐香…!」  ぼくの両目からも涙が流れ始めた。耳を濡らし、髪を濡らし、畳が濡れると分かっても止められらなかった。 (ごめんなさい、悟さん…)  お母さんじゃなくて、ごめんなさい。  お母さんの代わりになれなくて、ごめんなさい。  声にならない謝罪を繰り返しながら彼の肩を抱いた。広いけれど、すっかり肉の落ちた痩せた肩。体だって、なんて軽いんだろう。  白髪の混じったぼさぼさの髪を何度も撫でた。ほんの僅かでいいから、これでぼくたちのなにかが軽くなってくれますようにと祈りながら。  陽もすっかり落ちて、カーテンのない窓から入る淡い街灯の明かりが部屋をぼんやりと照らすだけだった。ぼくたちはずいぶん長いこと、薄闇の中でそうやって体を重ねていた。

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