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光の雫 p15

 のっそりと起きあがった悟さんは、一言「帰れ」と言った。  ぼくも続いて身をひき起こしはしたものの、あまりにやつれ果てている悟さんの体や暮らしぶりに、色々と訊きたいことがあったから、このまま去っていいものか少しだけ逡巡した。  ちゃんとご飯を食べられているのか。  仕事はできているのか。  ぼくのせいで刑務所に入るようなことはなかったのか。  そもそも、どうしてぼくを見つけることができたのか。  そしてぼくのほうもまた、宗太の家の里子になったことや、つい先日もお母さんと会って彼女が元気だったことなど、伝えておかねばならないのかもしれないと考えた。  けれど、これ以上一言でも言葉を発すれば、また悟さんの激情を刺激しかねない。  思い直したぼくは、結局、逃げ出すようにしてアパートを後にした。  外階段を駆け下り道に出たところで、いまは何時で、ここはどこで、どうやったら家に戻れるのかも分からない。  ぼくは宗太からもらったブレスレットを掴みながら、折れそうな心をどうにか支えられるようにして駆けだ出した。頬はまだ痺れていて、夜風に沁みた。  どこへ行けばどう道が開けるのか分からなかったけれど、ともかくまっすぐ行けばなにかしらの線路にぶつかるに違いないと、住宅の立ち並ぶ中を小走りに走った。運よく、そうもしないうちに高架橋が現れ、電車が通るのが見えた。走り疲れたぼくは線路に沿って歩いた。  路線図で確かめると、到着した駅は宗太の家の最寄り駅からは路線が違うものの、そう遠く離れてはいない。  一時間ばかり後、玄関の引き戸を開けると、奥から宗太が現れた。  帰りを待ってくれたのか、鍵はかけられていなかった。  縁側に続く暖簾を手であげてひょっこりと出した宗太の顔を見て、ようやくぼくの心に温かな血が通う。宗太はぼくの帰りの遅さを心配してくれていたのだろう、張りつめた表情だった。 「遅かったな」 「ごめん」  ぼくはむりやりにも笑うふりをした。靴を脱いでいると宗太が近付いてくる。 「顔…赤いな」  悟さんから殴られた跡が頬に赤みとして残ってしまっているのだ。 「そう?」  ぼくはすっとぼけを決めた。 「手の跡だろう、それは」  ところが宗太は鋭く観察して、勘良く言い当てる。だからぼくはそれらしい言い訳をあれこれと考え出さねばならなかった。 「ちょっと、喧嘩して」  慌てたぼくは嘘をついた。なにぶん、この数時間の辻褄を合わせないといけない。 「喧嘩?」  怪訝そうな声を出す。ぼくがタイマンを張って喧嘩なんて、しそうに見えないんだろう。実際ぼくはしたことがない。 「バイトの帰りみちに、嫌な男と肩がぶつかっちゃって。ほら、途中に広い駐車場があるだろ、そこに連れ込まれちゃって。いちゃもんつけられて、なんだかんだ、長時間からまれてさ。ぼんやりして歩いてたぼくも悪かったんだけど、最後に二三発、殴られただけ。まいったよ、チンピラかなんかだったのかな」  できるだけなんでもないふりをして告げたが、宗太は血の気が引いたみたいに蒼白な顔になった。 「そうか…」  すっかり本気にした宗太は、そうとうショックを受けたようだ。ぼくのためにこんなにつらそうな顔をしてくれるのを見て、さすがに胸が痛んだ。  嘘ついてごめんと心で謝る。  けれど本当のことを話せば、きっともっと心配をかけることになる。悟さんと交渉を持とうなんて考えられたら、それこそ宗太までが悟さんの憎悪対象になってしまう。それだけはどうしても避けたかった。  おばあさんは先に寝ているという。宗太はぼくがお風呂に入っている間に夕食を温め直し、魚を焼いてくれた。  その夜のぼくは、いつにもまして激しく宗太を求めた。  そうすることで悟さんとの出来事を忘れようとでもするみたいに。  ぼくはまた宗太を使うことで、悟さんを記憶から消し去りたいとする甘ったれた衝動を抑えきれなかったのだ。  わけの分からない宗太は、まさにタガの外れたようなぼくの激情にときおりうろたえるような目をして、ぼくに付き合っていた。

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