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光の雫 p17

「なあ、あの人最近来ないけど、どうかした?」  次のシフトの人たちと交代の時間になり、ユニフォームを脱いで帰り支度を済ませたとき、戸川が不思議そうな顔をした。なんのことかとぼくは首を傾げた。 「ほら、仕事あがる時によく迎えに来てたじゃん。すげえ背の高いイケメンが」 「ああ」  思いあたって頷いた。 「お先に失礼します」  挨拶して、一緒に店のドアを抜けた。戸川とは途中まで帰路が同じだ。 「迎えに来なくても大丈夫って言ったんだよ」  苦い気持ちが声にならないように気を付けながら答えた。  ぼくから宗太にそう告げたのは、事実だ。  宗太はぼくが嘘をついた夜の翌日から、つまり、悟さんに連れ去られ、あの多量のルビーを見せられた夜に、チンピラに絡まれたと嘘をついた夜の翌日から、自分の都合のつく限りぼくを店まで迎えに来てくれていたのだ。  宗太なりに心配してくれてのことで、嘘をついていたぼくは宗太に申し訳ないと思いながらも、本当のことを言えず、してもらうままだった。  悟さんの死後、ぼくは宗太にあの夜起こったことをありのままに打ち明けた。  宗太にまで危険が及ぶのが怖くて本当のことを話せなかったことも含めて、嘘をついたことを謝った。でももう心配はいらないから迎えに来なくて大丈夫だし、逆に気疲れしちゃうからやめてとお願いしたのだった。  宗太は嘘をつかれていたことを怒りもせずに、快く承諾してくれた。 「あの人、お前のなに? 友達じゃないだろ。兄貴とか…いとこ?」  戸川が続ける。  こういうとき、上手く躱せたらいいんだけどなと、我ながら情けなくなる。どうもぼくは頭が固くて、この手のアドリブが利かない。  返答の言葉に迷っていると、どう気を利かせてくれたのか、戸川は「まあ、いいや」と言っていきなり「うちに寄らないか」と続ける。 「前に言ってたろ。アジの南蛮漬け。あれ、作ってやるよ」  思いもよらぬ誘いだったが、今日はこれといった用もないし、それじゃとお邪魔することにした。  食材を用意するのに駅前のスーパーに足を延ばすというので同行した。連れられたのはぼくもよく使う店だ。  そういえば…と思い出す。  宗太の家に初めて招かれた日、その前にも宗太とここで買い物をした。同じようにアジを買ったのだ。戸川は捌かれたものを選んだが宗太は丸魚を買っていた。  いまとなっては宗太と買い物なんて日常になっているけれど、あの時はふわふわと雲の上を歩いているような、ふってわいたような幸福に浮ついた気分になったものだ。こんな幸運もこれきりなんだろうと疑いもしなかった。  いまはずいぶん、幸せに馴れてしまって。  それは他でもない、宗太のおかげなんだけど。  宗太は、ぼくの足らない人間性を責めたり、罵ったり、怒ったり、捲したてたりしないから。ぼくはそんな彼の深い懐にとことん甘えてしまっているのだろう。  戸川の家はバイト先に近いので道を引き返す。暦は十月の後半で、枯葉が心地いい秋の風に吹かれてかさかさと音をたてていた。  単身者用の比較的新しい、小綺麗な二階建てアパート、その一階に戸川の部屋はあった。  一歩入り、他人の家の匂いを嗅いだ瞬間、ぼくは悟さんの部屋を思い出した。ここは新築の匂いが仄かに残っているけれど、悟さんの部屋はすえきった、かび臭い、生活と排泄の混ざった匂いがしていた。  悟さんはどんな思いで、あれだけ古くて寂れたアパートを選んで住んでいたのだろう。いくら賃料が安いといっても、せめてこれくらい垢抜けた部屋を選ぶこともできたろうに。  そこに、悟さんのいまもって不可解な精神状態をぼくは覚らずにはいられない。とりもなおさずそれは、お母さんによって彼に与えられた一種の楔だったのに違いない。彼はお母さんによって人生を狂わされたのだ。それは男としてとても気の毒ではあるけれど、一方で、一人の女にたいしてあれだけの強い思いを持ち続けえたのはある意味、幸福だったのかもしれない。でももしかしたらそれは、ただのぼくの願望なだけかもしれないけれど。そんなことも、ぼんやりと考えた。 「具だくさんの味噌汁だとさ、それで一品、ちゃんとしたおかずになるんだ。それと南蛮漬け。これから米炊くから、テレビでもつけて座布団に座って待ってろ」 「テレビはいらない。これ見てもいい?」 「ああ」  ぼくは戸川の学習机においてあった『大学への数学』の最新号を手に取り、椅子に腰かけてぱらぱらとめくった。  冊子の真ん中あたりまで一枚一枚、丁寧にページが折られている。ところどころ書き込みがあって、こつこつと真面目に勉強している跡が伺われた。  あるページの三次関数のグラフが目に入った。Xの範囲を分けて積分を数回使って解答する問題だった。メモを見る限り、戸川は少々苦労したようだ。  ぼくは「宗太が好き」とは全く別の意味の「好き」に似た情熱が胸の奥から噴き出してくるのを、じわりと感じた。 (紙と鉛筆で解きたいな)  それができないいまがもどかしかった。いくらなんでも戸川のを勝手に借りるわけにはいかないし、そもそもそんな行為はなんとなくいやらしい。  今日の帰りが無理なら、明日、バイトの帰りに本屋に寄ってこれを買おう。そして1ページ目からパズルみたいに解くんだ。きっとぼくはこれにハマるに違いない。  久しぶりにわくわくしている。ぼくの中にこんな積極的な勉強への情動が湧くのもいつぶりか。

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