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腕いっぱいの花束に、胸いっぱいの恋歌を p28

 午後の授業が終わり、保健センターに向かった。 「唯輔って人、います?」  ドアを開けて保健師に声をかけた。先生はデスクで何やら作業中のようで、「奥で寝てるよ」との返事がくる。  クリーム色のカーテンで仕切られた中を覗くと、ベッドが並んでいて、唯輔は一番手前のベッドで寝息をたてていた。芝生のときと同じく、深く眠っているようだ。屋内で見ると目の下のクマがいっそう濃い。寝不足なのだろうか。それとも、なんらかの病気――? 「あなた、知り合いなの?」  ぼくは首を横に振った。 「高橋先輩と一緒に、この人を見つけただけです」 「そうなの。さっき少しだけ目を醒ましたから、話したんだけどね、この子、ここの学生じゃないっていうの。とりあえず自宅の住所は書いて貰ったけど、また寝ちゃって。実家には連絡を入れないでほしいって言うし、どうしようか悩んでいたところよ」 参ったとばかりに眉をひそめる先生は、困惑を隠さなかった。  なんで家族に連絡してほしくないのか、ぼくも怪訝に感じた。 「家族に知られたくないのは、バツが悪いからですかね」 「かもしれないわね」  先生が苦笑する。  様子を見ていたいと申し出ると、先生は丸椅子を貸してくれた。夕暮れのころ、授業を終えた宗太が来た。  そろそろここも閉じる時間だと先生から告げられたが、唯輔はまだ熟睡中だった。宗太が負ぶって自宅に届けると言い出し、そうするしかないだろうとぼくも同意した。  唯輔の住所の紙を預かってネットで検索してみると、唯輔の自宅は大学のごく近辺だった。  宗太が唯輔をおんぶして、ぼくが宗太と自分の荷物を持ち、唯輔のサンダルを手にして、その住所へと向かう。唯輔は体を動かされてもまったく起きる気配がなかった。  宗太は、すらりと身長のある唯輔を背負ってもまださまになるほど、いい体格をしている。「すげえな、宗太」と惚れ直す気分で言いながらぼくは横を歩いた。宗太はそんなぼくに、はにかんだような苦笑を深めていた。  大学の最寄り駅とは逆方向の、歩いて十分も離れていない路地に唯輔の住所はあった。小綺麗な軽鉄骨造りの単身者用アパート、という体だった。  一階の一番奥のドアの表札に、「田中」の文字がある。「田中唯輔」が彼の氏名なのだった。  唯輔が鍵を持っていないことは保健センターで確認済みだったので、ぼくはそろりと手を触れてドアノブをひねった。案の定、鍵のかかっていないそれは軽い感触で開いた。 「あーあ。不用心だよ…」  ぼくは呆れて口にした。 「そうだな」  宗太も心配そうな顔をした。唯輔はどうも危機管理に疎いらしい。  宗太が唯輔を背負ったまま、靴を脱いであがる。ぼくは玄関に唯輔のサンダルを置き、自分と宗太の靴を整えた。  玄関から短い廊下が伸び、右手に洗濯機とトイレだかバスルームだかの半透明のドア、続いて小さな冷蔵庫つきの狭いキッチンがある。その奥に八畳ほどのフローリングが続いていた。ぼくもたまに一人暮らしをしている友達の家に寄せてもらうことがあるけれど、彼らの部屋と似たような造りだった。  秋の西日が橙色に部屋を染めている。宗太は唯輔をベッドに寝かせると、ベッドわきのレースのカーテンを閉じた。前面の道路から部屋が丸見えだというのに、カーテンは薄いレースのしかなかった。  ベッドとパソコンの乗ったローデスク。それだけのとてもシンプルな部屋。  いや、むしろ、シンプルすぎる。本も雑誌もない、ちょっとした雑貨もない。ほとんど生活感というものがないうえに、壁もベッドもデスクも白で統一されていて、まるで天使の部屋にいるような、淡い異空間に紛れ込んだみたいな気分にさせる。浮世離れした「唯輔」という存在に、ぼくはいっそう、うすら寒いものを感じ始めた。  宗太は何を感じているのか。感情の掴みにくい、例の飄々とした表情で部屋を見まわしている。 「帰る?」  ためらいがちに訊いた。

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