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腕いっぱいの花束に、胸いっぱいの恋歌を p36
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「おや、今日はよっちゃんだけ? 宗太は別?」
部屋に荷物を置いた後で台所に入ると、お味噌汁の鍋が湯気をあげていた。
「今日も不眠症で倒れた友達がいてさ。送りに行ってる」
「まあ」
優しいおばあさんは悲嘆の声をあげた。
「若いのに不眠症なんて、気の毒にねえ」
お玉で味噌汁をかき混ぜながら、ため息をつく。
「おばあさん、今からごはん?」
「そう。一緒に食べる?」
「うん」
おばあさんが煮物の火加減を確かめている間に、ぼくはできていた焼き魚を皿によそった。それから炊飯器のご飯を手早く混ぜる。もうすっかり馴染んだ、いつもの食事前の風景だ。
「よっちゃんくらいの男の子は、普通はこんなふうに手伝わないもんだって、友達から言われる。あんた幸せ者だねえって、羨ましがられるよ」
相貌にやさしい皺が刻まれて、柔和な笑顔になる。おばあさんのこの笑顔を見るとぼくの心には明るい光が灯るんだ。
「そう?」
「友達に言われなくとも、そう思っていましたけどね」
ぼくの差し出した椀にお味噌汁をよそってくれる。ぼくは自分だけが褒められて、なんだか面映ゆくなった。
「宗太も優しいでしょ」
いろんな感情が綯い交ぜするのが顔に出ないよう、明るく告げた。
「そうかもしれないね。よっちゃんも優しい子。宗太も優しい子。おばあちゃんは幸せ者」
韻を踏んで歌う。
おばあさんと二人きりになる機会はなかなかないから、こんな会話になったのだろうか。
ぼくは胸のあたりがくすぐったくてしょうがなかった。
嬉しくて、じんと胸がぬくもって、やっぱり、くすぐったかった。ぼくの祖父母は、ぼくをこんなふうに可愛がってくれなかったのだ。病院を経営していたり、立派な家に住んでいたりして金持ちだったのかもしれないけれど、ぼくにとっては遠い存在だった。それは今でも変わらない。
宗太と出会わなければおばあさんにも出会えず、ましてこんな穏やかな時間を経験することもなかった。ぼくの幸せは全部、宗太という存在の上に成りたっている。もちろんぼくは宗太が大好きだし、この気持ちは大袈裟でなく未来永劫変わらないはずだから、そんな現状に不服はない。
ただ、時折、不安になるのだ。
ここまで宗太におんぶに抱っこで、頼りきっているぼくは本当に大丈夫なんだろうか…と。
もう少しドライに、精神的にも肉体的にも自立して、適度な距離を保つべきじゃないのか。これは一種の自衛本能なのだと思う。
もし万が一、宗太と離れなくてはならない事態になったら。
それでもぼくは、しっかりと自分の足で立って生きてゆかなくてはならない。だから自分で自分を幸せにできるなんらかの術を身につけておかなくてはならないのだ。そうしなければ生きてゆけなくなる。
こんなふうに考えるようになったぼくは、やはり、高校のときよりかはだいぶ成長したのかもしれない。
だからかもしれない。
今日の午後に、宗太から送られてきた『今から唯輔を部屋に送り届けてくる』というメールの文面に、ぼくは駄々をこねないよう自制できた。
サークルを休んでまで宗太が唯輔の世話を優先することに、釈然としないものを感じながらも、おとなしく『了解』の文字を返すことができた。
唯輔がまた中庭で倒れていて、保健センターに担ぎこまれたらしいのだ。これで三回目だった。初めての日から一か月ばかりが経っている。
メールを受け取ったとき、ぼくにはまだ一時間の講義が残っていて、『手伝いがいるなら授業休むよ』と、念のために打ち足した。
『三上が一緒だから大丈夫』
その返事にぼくはいくぶん肩をなでおろした。三上さんがいれば、唯輔の部屋で宗太と唯輔が二人きり、なんて状態にはならないわけだ。
それでも、懐かしい二人が再会して恋に落ちるシチュエーションが脳裏に浮かんでは消え、ぼくを悩ませ続ける。誇大妄想かもしれないけれど、あれほど宗太に「浮気なんかしないから安心しろ」と言われても、やきもちやきのぼくはたやすく安心できるものじゃないのだ。
(今日は三上さんが一緒だから、大丈夫だ)
そう自分に言い聞かせ、おばあさんとの夕食を前になんとか気分を落ち着かせた。
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