16 / 20

第16話

 この大地には、デリアラという名がある。  大小合わせて六十一、全世界の半数近くの国が存在する、世界最大の大陸だ。 「一の帝国、二十三の従属国、十一国からなる連合国、そのほか、二十六の王公国。我らが今いるのは、デリアラのこの辺り、連合の一端、ザレ公国だ」  アクロは広げた地図の一点に指を置く。デリアラ大陸のみを描いた地図だ。 「規模がでかすぎて、よくわからない」  少年──ルカは盛大に顔をしかめ、しかし真剣に地図を凝視する。  地図というものを初めて見た。  己が立つ大地に名前があることをルカは知らなかった。それどころか、生まれた国や村の名前さえ。誰も教えてくれなかったのだから、当然と言えば当然だ。  唯一であれば、区別のための名前など必要ない。  あの村の人間たちにとって、村は『村』であり、国は『国』なのだ。もしかしたら大人たちですら、それらの名など知らなかったのではないかとさえ思う。  だがあの村も、国も、どうやら唯一ではないらしい。 「北方の山脈を越えた先が、デリアラ最北の王国アルウルグ。国土の大半が一年中氷雪に覆われていて、外交を殆どしない。アルウルグが排他的というよりは、気候の問題もあるが、人間よりも魔物の数が多いせいで親交を結ぶ利点を他国が感じていないのだろう。そしてアルウルグ自体が、その点を問題と思っていない。そのことを思えば、ここより北に君の探し物はないと見ていい。ザレ国内か、南西方面のバレティア王国か。ルカ、国境を越えたかはわかるか?」 「関所みたいなところは通ったと思うけど、国境かは知らない。そういう時は大体忍び込んだ荷馬車の中だったし」 「荷を詳しく調べられなかったのなら街境だな。そのやり方は、今後は止めた方がいい。見つかった場合、国によっては奴隷落ち、運が悪ければ拷問で殺されるかもしれない。一時期、孤児に密書を飲み込ませ運搬させる方法が横行したこともある。疑われて腹を開かれるのは嫌だろう」  趣味の悪いことだ。ルカは肩を竦める。 「国境を越えてないなら、おれもザレ人ってことか」 「恐らくは」 「ザレって、大きな国?」 「そうでもないな。確か現公爵の三代前に独立したばかりの若い国で、領土も差程広くはない」  今まで立ち寄ったどの街も、ルカが生まれ育ったあの村に比べれば嫌気が差す程大きいと思ったが、この地図上ではアクロの指先よりも小さな点にしかならないらしい。  世界というものは、こんなに広いのか。  この中から、一粒の砂の如き妹を探し出さなければならない。途方もない話だ。 「鉱山資源が豊富で質のいい武具を作ることで栄えているが、痩せた土地が多く食料に関しては輸入に頼っているところが大きい。中央都市はきらびやかな反面、労働力を搾取されている地方の民らは貧困に喘いでいる印象だ」 「おれがいた村も、大人の男はみんな山に石を掘りに行ってた。それでもろくに食べられなかったけど」 「……鉱山の採掘量は近年下落傾向にあるらしい。鉱山が枯れた時、ザレがどう動くか見ものだな」  珍しく棘のある言い方をするアクロに驚く。何か気に障ることを言っただろうか、不安げに見上げると彼は「何でもない」と苦笑した。 「それで、君は妹を探していると言ったか」 「うん」  ルカは村であったことのすべてを、アクロに話すことにした。  両親のこと、妹のこと、村の状況やそこでの扱い、村長がしていたこと、されそうになったこと。言い触らしたいわけではないが、隠す必要性も感じない。  それならいっそ、捜索のための手掛かりが欲しい。何をするにも、ルカはものを知らなかった。 「まず前提として、君の家は貯蓄するだけの余裕はなかったと考えていいのだろうか。行方を眩ました父親が、密かに貯めこんでいたという可能性は?」 「ないんじゃないかな。金が入れば酒を買って飲んだくれてたし」 「……あったとしても大した額ではないか」  聞けば聞く程ろくでもない、とアクロは苦々しい溜め息を吐く。 「だとしたら、大した距離は移動していないだろう。子供を連れて移動するなら尚更だ。付近の街で売られた可能性が高いが、問題は、道中で商隊などと遭遇して取り引きしている場合だな」 「そんなに違ってくる?」 「商隊は国境を越えることも多い。伝手のない個人と違って、卸し先の候補も増えるだろう」  言ってから、アクロは耐え難いとでも言いたげに首を振った。物のような言い方をしてすまない、と。  事実、妹は商品として売られていったのだ。その話をしている以上、仕方のないことだろう。そもそも自分や妹を人間として扱う大人など、あの村にはいなかった。 「奴隷商や娼館以外に、どういう卸し先がある?」 「……色々だが……妹御は、君と似ているか? 髪や目の色は?」 「髪色は、金茶色って言うのか、陽に透けると金色に見える明るい茶色。目は、おれと同じ。顔のつくりは……多分、似てると思う。妹はもっと、優しい顔つきだったけど」  アクロは仮面の上から額を押さえて呻く。  初対面でルカを少女だと勘違いしたアクロからしたら、この顔を柔らかい印象にした女児など正真正銘美少女だ。そしてそれは世間一般の評価とさしてずれてはいないと思っている。 「……嫌な言い方をするが、見目のいい少女は需要が高い。君のようなくすみのない金の目も珍しいし、もし商人の手に渡っていたら高い値が付けられるだろう。そうすると、貴族や豪商に売られている可能性も考えなければならない」 「上流階級の金持ちもか。精々場末の花街か、人手不足の中流階級くらいだと思ってたけど……探す範囲が増えたな」  再び地図に視線を落とし、思わず、といった具合に吐き出した溜め息。 「まあ、そもそも、生きていればの話だけど」 「…………」  ルカの落とした呟きに、口を開きかけ、しかし結局アクロは沈黙を選んだ。  獲物を狩り各地を渡り歩くノマの民は、きっと誰よりも、外域の危険を身をもって知っている。  雨風は馬鹿にならない、昼夜の寒暖差も、壁も天井もない野外では脅威だ。眠る時でも魔物や獣の息遣いに神経を尖らせ、野盗などへの警戒も怠ることは出来ない。食糧や飲料水も容易く手に入るものではないのに、夜逃げ同然で突発的に村を出た父親が、それらの準備をしていたとは思えなかった。  ルカはひとりという身軽さで切り抜けてきたが、当時熱を出していた妹を連れた父親は、どうか。  例えば不測の事態が起きたとして、あの男が妹を守るために動くだろうか。ありえない。自分の身に危機が迫れば、あの男は躊躇いなく妹を見捨てるだろう。  妹は、近隣の街に辿り着いてすらいないかもしれないのだ。 「最悪の事態は、おれも想定してる。大丈夫だ」 「……大丈夫では、ないだろう」 「大丈夫だ。死んだ証拠でも見つからない限りは諦めないし」 「…………」  ルカは、自分の思考が厭世的である自覚をしている。  人生にも世界にも興味はない。本当は生きることすら、どうでもいいと思っている。それを諦めずにいるのは、妹がいるからだ。  妹は自分のせいで、村長に目を付けられた。村長の態度から、金になると考えた父親に連れて行かれたのだから、やはり自分のせいだ。  この世界で唯一の大切な存在が、自分のせいで脅かされるなんてあってはならなかった。何としても、迎えに行かなければならない。  それだけが、ルカの生きる意味だ。  アクロは物言いたげに口をつぐみ、仮面の奥からじっとルカを見つめている。 「……わかってるよ、依存してるって言いたいんだろ」  妹の存在が生きる意味であるなら、裏を返せば妹がいないのなら、ルカに生きる理由はない。  ルカを生かしているその執着が、依存でなければ何だと言うのか。 「心配なんだ。もし……飽くまで、もしもだ。妹御の身に、その、もしものことが起きていたら、君は……」  濁した言葉の先は、聞かなくてもわかった。 「自殺はしないよ」 「……そんなことをしなくても、命は、儚い」  生きるために足掻くことをやめるだけ。それだけで、世界はこのちっぽけな命を奪っていくだろう。  ルカはそれに対して「大丈夫」とは言わなかった。ふいと視線を逸らして、肩を竦めるだけ。 「妹が無事に見つかることを祈っててくれ」 「……それは、勿論」  納得した様子ではなかったが、アクロはどうにか頷いた。  生きて欲しいと言うのは簡単だろう。だからこそか、容易く口にすることを躊躇っているようだった。  アクロが落とした視線の先、強く押さえる左手首には、ルカが編んだ加護飾りがある。  黒褐色の革紐で青みのある尖晶石を編み込んだ飾り輪だ。完成したものを渡したら巻いて欲しいとねだられたので、その通りにした。  以来アクロは、ふとした時にその手首に触れるようになった、気がする。 「君に、戦う術を教えたいのだが、覚える気はあるか?」 「え?」 「私は、私の希望を君に押し付けることは出来ない。それは、自由を愛するオルシュアの教えに背くことになる」  自由とは、肉体の自由、そして魂の自由。奔放な女神は塵界の苦しみからの解放に、命を擲つことを否定しないらしい。何ともおおらかなことだ。もっとも、彼らの女神にとって人間の肉体は一時の器でしかないなら、それも道理だろう。  女神はただ、己の元へ還る魂を迎え入れ慈しみ、そしてまたいずれ、送り出すのだと。 「だからと言って、残される者が悲しくないわけはない。少なくとも私は、君に、……容易く投げ出して欲しくはないんだ」  だから、とアクロは続ける。  だから、君の生存率を上げる手伝いくらいはさせて欲しい、と。 「短剣術と弓……君にはまず弩の方がいいか、それに狩りの仕方も。武器を扱えれば、傭兵として仕事を得られる。情報を得るにも、傭兵という立場なら動きやすいだろう。少なくとも、荷馬車に紛れるような危険を冒さずに済む。どうだろうか」 「それは、おれとしては願ったりだけど」 「けど? 何か問題が?」  ぐっ、と身を乗り出してきたアクロに思わず仰け反る。いちいち距離が近いのだ、この男は。 「ない、ないよ」  だから離れて欲しい。 「ならよかった。雪が弱まる時分を見計らって外で訓練をしよう。それまでは……そうだな、この中でもナイフの扱いに慣れることは出来るだろう。今度刃引きしたナイフを用意するから、それで自分の手指のように扱えるように、取り回す練習をしてくれ」 「……加護飾り、新しい編み方教えてくれたばっかりなのに」  不満に唇を尖らせると、アクロの厳しかった雰囲気がふっと和らいだ。ルカはひっそりと息を吐く。大人が纏う、ひりついた雰囲気はやはり苦手だ。 「四六時中扱い続けるのが理想ではあるが、まあ、無理をして怪我をしては元も子もない。互いが互いの息抜きになればいいだろう」 「んー……」 「何だ、随分加護編みを気に入ったんだな」 「性に合ってた」 「ピュリエンの解体は?」 「あれはキモい」 「ふっ……」  この男は案外、笑いの沸点が低い。ルカは抱えていた足を伸ばし、肩を震わせているアクロの向こう脛を蹴飛ばした。 「こら、行儀が悪い」 「生憎、育ちが悪いもんで」 「すっかり気を許してくれたようで嬉しい──よ」 「ぎゃんっ!」  むんずと捕まれた足首を持ち上げられて引っくり返る。抗議するよりも早くそのままずるりと引き寄せられ、あれよと言う間に抱き上げられてしまった。  アクロが組んだ胡座の隙間に尻がすっぽりと嵌まってしまう。 「ちょっと……」 「まだ何か、話しておきたいことはあるか?」 「ん、いや」 「なら少しの間、このままでいてくれ」 「む」  背後から大きな体に包まれる。  拘束はゆるく、抜けようと思えば簡単に抜け出せる腕の中で、ルカは力を抜いて背中を預けた。  どうも、甘やかしたい心境になってしまったらしい。 「……アンタ、おれを子供扱いしすぎだと思う」 「子供だろう。子供扱いなんて、その内すぐにされなくなる。今の内に甘えておけばいい」  ルードの子供たちもすぐに成長してしまうのだ、とアクロは残念そうにぼやく。本当に、子供の世話を焼くのが好きなのだろう。物好きなことだ。 「おれだって、もう十四なんだけど」 「────、」  唐突に。  体に回された太い腕が、石のように硬直した。

ともだちにシェアしよう!