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第18話

 アクロが聞いたのは、特殊な呼子の音だった。  通常の人間の可聴音よりも数段高く、嵐の中でも遠くへ届くため、五感の優れたノマの民が緊急用に使用する。駐留地を起点とし、呼子を聴いた者がまた呼子を吹くことで、更に遠くまで音を届けるのだ。  しかし各々の自主性を重んじるノマが、緊急招集を行うことは非常に稀だ。  余程のことが起こったのだ。  アクロは雪を蹴り、翔ぶ勢いでルードに戻った。 「ああ、アクロも帰ったか」  集会用の巨大な雪洞には、既に子供以外の家族たちの多くが集まっていた。  みな一様に、緊張した面持ちだ。何名か見当たらない顔があるが、恐らく呼子の音が届かない場所にいるのだろう。いくら遠くまで届くといっても限界がある。 「ふむ、まだ完全に揃ってはいないが、そろそろ話を始めよう」  中央に座す酋長がとん、と膝を打った。  ざわついていた雪洞内が、しん、と静まり返る。 「スムーの調査に出ていたカナンが戻った。カナンからみなに報告がある」  長に促され、カナンと呼ばれた隻腕の男が膝を擦って僅かに前へ出た。  年の頃は五十の半ば、片腕を失くしたことで引退した元狩人で、現在は移動の際の先遣、駐留地では周辺環境の調査などを主に行っている。今回は酋長からの指示を受け、この地域に生息するスムーの調査に出ていたようだ。  スムーとは乳白色の毛皮が美しい鼬獣(ゆうじゅう)の一種で、ピュリエンの天敵でもある。  魔物ではないものの、ピュリエンより小さな体躯で狭い岩場でも俊敏に動き回り、鋭い牙でピュリエンの腹や卵を食い荒らす非常に獰猛な捕食者だ。ピュリエンは繁殖力の高い魔物ではあるが、食欲旺盛なスムーがいることによりその数が抑えられている。  だが、今季のピュリエンの異常な増殖。明らかに生態系の均衡を崩す水準だ。そこで酋長はスムーに何かしらの異変があったのではないかと考えたのだろう。 「結論から言えば、スムーを確認することは出来なかった」 「出来なかった?」 「正確には、巣穴は何ヵ所か見かけた。放棄されて何年も経っている、というわけではなさそうな巣穴だ。だが、その主がいない。複数箇所で数日張り込んだが戻って来る気配はなかった」 「他の狩人からは、荒らされたスムーの巣を見たという報告もいくつかあった」  捕捉した酋長にアクロを筆頭に数人の狩人が頷く。その報告を上げた狩人たちだ。 「こんな吹雪の中だから、他の獣らがどうかまでは確認しきれないが、少なくとも、スムーが著しく数を減らしていることは間違いない。天敵が減ったことでピュリエンが増殖しているなら、洞窟内の生物らも減少しているだろう。出来ればそれも確かめたかったが、ピュリエンの縄張りに対策もなく一人で入るのは自殺行為だからな」  魔物の中では比較的大人しいとは言え、ピュリエンは縄張りに侵入してきたものには容赦がない。賢明な判断だが、酋長が睨みを利かせたところを見るに、洞窟内調査の許可を取ろうとして失敗したのかもしれない。 「スムーの減少は、人為的なものか?」 「否定は出来ん」  狭い住みかから出ることが殆どないピュリエンにとって、スムーはほぼ唯一と言っていい天敵だ。だが決して強い生物ではない。他の生物の補食対象にもなり、ピュリエンに返り討ちに遭うこともあるスムーは、人間の手で減らしていい獣ではないのだ。  ノマの民は必要に駆られない限り、進んでスムーを狩ることはない。  しかし皮肉なことに、内地でのその毛皮の需要は高く、非常に高値で売買されている。  美しく密度の高い毛並みは、獰猛なスムーを相手に危険を冒す価値があるものらしい。本格的な冬が訪れる前に大々的な狩りが行われた可能性はある。  雪さえなければ罠の痕跡を探ることも出来たかもしれないが、それは言っても仕方のないことだ。 「だが、内地の連中だけで狩り尽くしたというのは無理がある。荒らされた巣穴は他捕食者の仕業だろう。狩人らは、雪が降る前までの狩りで何か違和感を感じなかったか?」 「違和感……そうだな……」  酋長を始め、みなが各々に記憶を探るが特に思い当たる節はない。獲物たちの種類も数も行動も、違和感と呼べるような違和感はなかった筈だ。 「……いや、そういえば……」  ふと、アクロは掘り起こした記憶から微かな異変を拾い上げる。 「雪が降り出す少し前、一部の獣らは、落ち着きがないと言うか、気が立っている様子だった……か。渡り鳥が少し騒がしく感じたのも、そのせいだろうか」 「そう、だったか?」 「俺にはわからん」 「言われてみれば、滅多に鳴かないラダ(渡り鳥)の声を聞いたような……」  狩人たちは顔を見合せる。その程度なら、異変とも呼べない気がした。 「スムーが一時的に住みかを移しただけならいいのだが、そうでないなら生態系への影響も考えられる。スムーがいないとなるとピュリエンの卵の殆どが孵っていると見ていいだろう。共食いである程度は減るにしても、それは洞窟の生物らを食い尽くした後だ。みな、ピュリエンの動向に注意を払いつつ、出来得る限り狩るように。ただし、決して深追いはするな」  酋長の言葉に狩人たちは応、と応える。この話はここまでだ。酋長はカナンと顔を見合せ、重々しく頷き合った。 「さて、報告はもうひとつ、呼子まで使ってみなに集まって貰ったのは、こちらが本題だ」  硬い口調の酋長が外套の下から取り出した、一本のナイフ。  魔物の骨で出来た、ノマ特有のナイフ──クルトゥだ。  抜き身の刃は、黒く汚れている。恐らくは、血だろう。 「マーナヴェリグの名が刻まれている」  その名に、肩を震わせたふたりがいた。女がひとり、転がるように酋長の前に出て、クルトゥを凝視する。  クルトゥは、ノマの民が生まれた際に精名とともに与えられる、特別なナイフだ。刻まれているのは精名で、そのため本来は肌身離さず身につけている筈のもの。  それが、持ち主の手を離れ、ここにある意味は。 「……マナクの名だな?」  女は崩れ落ち、慟哭した。ふらりと立ち上がった男が女の肩を抱き、力なく項垂れる。  男女は、マナクの両親だ。  「これから、カナンにこれを発見した時の状況と、その見解を話させる。みなにも思ったことを発言をしてもらう。お前たちには、苦しい時間になるだろう。聞きたくなければ退出しても構わない」  しかし夫婦は首を振った。聞かせて欲しい、知らなければならない、と。  酋長は頷き、カナンへ目配せをする。 「これは、スムーの調査中に、ある洞窟の浅部で見つけた」  低く嗄れたカナンの声が、やるせなく吐き出された。  クルトゥの側には散らばった矢、そして血溜まりらしき痕跡と、深部に向かって引き摺られた血痕もあったという。その血痕は人が通るには困難な岩間に続いていたこと、また付近にはピュリエンの痕跡も散見されたため追跡を断念したと。  カナンが酋長に掛け合ったのは、ピュリエンの調査ではなくマナクの捜索だったのかもしれない。 「マナクが……ピュリエンにやられたのか」 「馬鹿な」  家族たちに動揺が広がる。マナクは若いが、腕のいい女狩人だった。  アクロの仮面の下の顔も曇る。  二つ年下のマナクとは兄妹のように仲がよかった。よく慕ってくれて、彼女が成人するまでは共に狩りをすることも多かった。  アクロがルカに語った、向こう見ずだった己につけられた成人前の狩人とは、彼女だ。 「その汚れは、血だろう。ピュリエンの体液では、そうはならないんじゃないか」  一段低くなったアクロの声に、カナンは頷く。 「その通りだ。他の生物とやり合って、洞窟に逃げ込んだか、或いは」  言葉を濁したカナンが、ぐっと歯を食い縛った。その後を、酋長が引き継ぐ。 「人と、やり合ったか」  殺しきれなかった悲痛な呻き声は、マナクの母親のものだ。隣に座る夫が、そんな妻の肩を強く抱いている。  マナクが最後に目撃されたのは十日程前のこと。豪雪降りしきる冬のただ中、こんな森深くをたまたま通りがかる部外者はいない。もしも人が関わっているのなら、それは。 「家族の、誰かが?」 「そうでないことを祈るしかないな」  酋長は苦く瞑目した。しかしカナンは首を振り、憤りと憎悪が滲んだ声を吐き捨てる。 「俺はそのような希望的観測は出来ない。現場に残った痕跡では転がり込んだ、というより……転がされた、ように見えた。獣や魔物は、斃した獲物を隠すように洞窟に捨てたりはしまい」  沈黙が流れた。重い、重い沈黙。当然だ、はっきりと口にはしないながらもカナンは、家族の中に家族を害した者がいると言ったのだ。  その場にいる者たちは困惑し互いに顔を見合せる。みな、家族を疑いたくはない。  酋長は大きく息を吐き、その場にいるみなを鋭く見渡した。 「この後、岩を削りピュリエンの巣穴を改める。狩人らはいくつかの班にわかれ、役割を分担して戦闘に備えよ。何もなければそれでよし、その場のピュリエンを殲滅して引き上げるが……マナクに関わる某かがあれば、それの確保を最優先とする」  そうして立ち上がり、改めてマナクの両親の前に跪く。抱き合い、声もなく涙を流す彼らに彼女のクルトゥを渡し、酋長は深く、こうべを垂れた。 「賢く勇敢だったマーナヴェリグ、オルシュアは彼女の気高き魂を慈しむだろう」  結論から言えば、ピュリエンの巣穴でマナクは発見された。  より正確に言えば発見されたのは、糸に絡まれた彼女の装備と、誰かも判別出来ない程に萎んでボロボロになった骨と皮だ。体の内部は、ピュリエンにより溶かされ、食い尽くされた後なのだろう。装備がなければ彼女だと気付く者は、いなかったかもしれない。  最悪だ。  その場にいた誰もが同じ気持ちだった。  最悪の結末である。  他の餌と同様に天井から吊るされたままの彼女の頭蓋は、一本の矢に貫かれていた。

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