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1-7 お仕事紹介します

 儀式の部屋へ入った時のように、葛葉は瑪且を抱えながら再び廊下に出た。羽織から瑪且が顔を出し外を見ると、空はすっかり色を変え、赤と青が混ざり黄昏色になっている。逢魔時とも呼ばれ、まさに魔と出会う時間帯だ。夜に向かう冷えた風が吹き、火照った瑪且には心地よかった。  元々置いてある外履きに足を入れ、瑪且ごと葛葉が中庭に降りる。白砂と白い玉砂利がぶつかって、じゃりっと音を立てた。  そのまま真っ直ぐに葛葉が歩いていく。砂を踏む音が、まるで雨が打つ音にも聞こえ、耳に心地よい。さらにリズミカルな振動も伝わり、疲れきった瑪且にはひどく蠱惑的な心地よさだ。睡魔に襲われそうになるが、その度に胎の奥で生き霊が暴れ、ビクンッと葛葉の腕の中で跳ねる。  先程よりは少しだけ冷静さを取り戻している瑪且は、己の失態を既に悔いていた。 (葛葉さんになんてこと言ってしまったんだ…しかも、あんな泣きじゃくって…。そもそもこいつが元凶なのに…)  電車の中で見た毛むくじゃらな腕を思い出して、それを頭の中で思い付くまま痛め付けて、瑪且は溜飲を下げた。   その内、目の前に数匹の錦鯉が泳ぎ、蓮の葉が浮いている大きな池が見え、そこには朱色の太鼓橋がかかっていた。太鼓橋の入り口と出口には4対の石灯籠が置いてある。  葛葉が石灯籠を横切った瞬間、何もない火袋にボッと空気が燃える音をさせて、青い炎が灯された。そして、出口の石灯籠も同じ様に、炎が灯される。葛葉達が来たということを家主に知らせるものだ。  橋を降りた真ん前にも、平屋建ての家があった。軒先の木の表札には何も書かれておらず、その横にやや黄みがかった白い花が木の花瓶に1輪刺さっていた。本来は今の時期に咲いていない月下香だ。  ふわりと甘く濃密な香りが漂い、鼻腔を擽る。官能をさらに刺激されて、瑪且は少しだけクラリとした。  ガラッとガラス戸が勝手に開く。 「お待ちしてました」  バリトンの落ち着いた声音が瑪且と葛葉を迎えた。2人の目の前には、扉の冊子に頭がついてしまうため、猫背になっている中年と思われる大男がいた。おそらく190㎝は超えるような長身だ。  烏のような漆黒の髪と瞳が印象深い。さらに、骨格がしっかりしているため身長よりも大きく見えて、まるで巨人のようだった。そして、無表情である。しかし、本来なら、すごく圧を感じるはずなのだが、穏やかな雰囲気が漂っており圧迫感はなかった。  一重の瞳が、瑪且を見る。泣き腫らした目尻に残る涙を、太い指先が軽く拭った。 「大丈夫か?瑪且」 「…っ…」  大丈夫と言いたいが、ついさっきまで取り乱しており、なんと答えていいか分からず瑪且が口籠る。その様子を見て大男ーー『一条乙人(いちじょうおつと)』は先程までのことを察したのか、2人を中に招き入れながら主人へ声をかける。 「葛葉さん。あまり苛めると瑪且に嫌われますよ」 「はは、今さっき嫌いって言われたばかりだよ」 「っ、そ、それは…っ」  あっさりとバラされてしまい、羞恥心が更に高まる。 「まぁ…。こんな時間までしていれば…瑪且も耐えかねるでしょう」 「そうみたいだね。今後気を付けるよ」  乙人は特に驚いた様子もなく、何なら葛葉を窘めるような口振りで話す。それに対して葛葉も気にする様子はなかった。  乙人は安倍野家に仕える一条家の中で、瑪且に続いて特別な存在だった。なぜなら、調教部屋の住人であるからだ。  調教部屋は、『瑪且』の体を調教、開発して、主が色情霊を退治できるようにサポートする部門だ。つまり、葛葉、そして瑪且を支える要であり、安倍野家側の一条家の中ではエリートのような立場だ。  さらに、乙人は幼い頃の葛葉や瑪且を世話していた。朱紀が来てから代わっているが、車の運転も乙人がしていたのだ。そのため、葛葉との関係も親しみのあるものだった。  本宅よりは狭いが、通常の一般家庭よりは広い廊下を歩いていき、開かれた和室に3人で入っていく。  儀式の部屋とほぼ同じ作りになっているが、床の間があり、そこには軒下に飾ってあったのと同じ月下香が花瓶に所狭しと刺さっていた。そのため、玄関よりも強く甘い匂いが、部屋中に漂っている。   「ん、ぅ…っ」  催淫効果があるようで、色情に関係するものには弱い瑪且の体は、過敏に反応してしまう。皮膚が粟立ち、瑪且が小さく呻く。それに気付いて葛葉が瑪且の額にキスをしてから、そっと布団に横たわらせた。 汗で濡れた額を優しく撫でられる。   「そういえば、朱紀は?」 「部屋の用意をしたら、奥に消えましたよ」 「まったく…。ほんとに全然慣れないね。乙人。朱紀を呼んできて?ちゃんとした調教を見るのは初めてだろう?」 「分かりました」  乙人が頷いて部屋から出ていった。すると、暫くして「俺は別に見たくもねぇ」だの「やることやったろ」だの朱紀が駄々をこねる声が聞こえてきた。  朱紀は本来は調教部屋の担当でないが、今は乙人の助手としてこの別宅に住んでいた。障子戸が開くと乙人に首根っこを掴まれ、まるで猫のようにして朱紀が登場する。  羽織が被さっているとはいえ、部屋の真ん中で明らかに情欲に濡れてぐったりしている瑪且を見て、朱紀がぎょっと目を剥く。反射的に逃げ出そうとする朱紀を乙人が再度捕まえる前に、葛葉のやや厳しい声が聞こえた。 「朱紀。これは仕事だよ」  さすがに朱紀もピタリと動きを止める。かなり渋い顔をしながら部屋に入った。なんだかんだ言って、仕事はしっかり行うのだ。しかし、元々悪い目付きが更に凶悪になって瑪且を睨み付けてくる。  いつものように罵倒はしてこないが、視線がうるさい。 (俺に当たられても…。俺だって見られたくないよ…)  この後、自分がどんな目に合うのかを知っている瑪且は、自分が求めたとはいえ緊張と恐怖、激しい羞恥心があった。  いっそ睨み返してやりたい気持ちだが、睨めるほど今は顔に迫力もないし、いちいち面倒臭そうなので瑪且は視線を逸らして天井を見つめる。  すると、にゅっと葛葉の顔が覗き込んできた。瑪且の頭側の上に葛葉が正座をしている。 「まお、ちゃんとここにいるからね。安心するんだよ」  頬を撫でられながら「はい」とやや力なく答える。  朱紀は障子戸の前に胡座で座り込み、乙人は用意してあった龍笛を手に部屋の角に正座で座っている。 「始めます」  乙人が一言そう発すると、龍笛の甲高い音が部屋中に鳴り響き始めた。

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