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第6話

 家に帰ると、玄関先でエースが俺に向き合って尋ねた。 「部屋着のトラウザーズはある?」 「あるけど」 「それと下着も」 「あるけど、どうして」 「仕立て屋に行って、尻尾の穴をあけて貰おう」 「え!いいよ、まだ」 「狼種は部屋着にするボトムには尻尾の穴をあけるんだよ?」  そう言われても、俺は戸惑うばかりだった。  尻尾?俺に?まさか。穴の開いたパンツだって?あんなことを毎日するなんて、想像がつかない。 「ごめん、まって。それはまだできない」 「そう?」 「エースさん、俺はまだ自分が狼種だってことが……うまく飲み込めていない。でも、ちゃんとするつもりではいるんだ。だから、もう少し待ってくれ」 「手を」  エースに求められて、俺は手を差し出した。叩かれるのかと思ったら、手を掬うように取られ、彼の唇が指先にキスをした。ちろ、と舌が俺の指に触れ、その感触で背筋がぞくりとした。  女の子としたセックスよりも、エースに舐められる方が気持ちいいなんて、そんなのおかしい。大きな騎士の、薄い色合いの瞳にじっと見つめられながら指先にキスされて気味悪いとは思わないのが、男としての違和感だ。どうして? 「何か聞きたいことはある?」 「おかしい、兄さんだから恐くない?でも、おかしい。いくら何でも男から、それも騎士から指先にキスされたら嫌になるはず」 「嫌だった?」 「嫌じゃないからおかしいんだ」 「つがい契約をしているから」  授業で習ったから知っている。番契約とは神力を込められた神像の前で魔力を込めて誓うことで、一生涯続く誓いとなる恐ろしいものだ。なぜなら、その誓いは呪いに近いと人種は思っているから。神獣教会の神父はこの番契約の魔術を取り扱える者だけがなれる。  俺は覚えていない、エースと誓ったその日のことを。まだほんの子供だった。 「俺は契約の時に何を言ったの?」 「お前は小さい頃から賢かった。オレを兄として、オレのつがいになることを誓ったよ」 「エースさんだって子供だったろ、誰も止めなかったの?」 「つがいの匂いを嗅ぎ分けられたら一人前だと見なすんだ、教会は。そういう慣習が獣種の早婚に一躍買ってるんだよ。オレみたいに同性にしか反応しない奴もいるけど」 「俺はその時の自分が何を考えていたのか思い出せないんだ」 「分かってるよ」 「なら、どうして?俺は人種が良かった」  まだ手はエースに捕らわれていて、彼は両手で俺の手を温めていた。大きな手の平で、温かい。エースはじっと俺を見ていた。十二年ぶりで会えた番を前にどんな気持ちでいるかなんて、俺は考えたこともない。 「冷静になって考えたら分かる。お前はオレという助けなしでは人種として生きられない。人種として偽装する必要があるからこそ、狼種のオレとつがいになることを選んだ。あの頃のお前は自分がハーフブラッドだと理解してたよ」 「そのことを、なんで俺は覚えてないんだろう……」 「さあ。忘却の神のきまぐれか、或いは本当に誰か何かしたのか……どうだと思う」 「誰かが?」 「別にいいんだ、忘れてしまっても。レイドがいるなら」  エースは俺の手をそっと放して、軽薄に見える笑みを浮かべた。それが彼のできる微笑み方なのだと、何となく分かって来た。 「レイドが忘れてもオレが覚えている。思い出せなくても、これからつがいとして共にあることはできる。オレはそっちの方を選ぶよ」 「俺を責めないの」 「どうして?」 「だって俺は、エースさんを完全に忘れてる」 「死んだと思っていたなら無理はない。それよりレイド」 「何」 「オレの名前は呼び捨てでいいよ」 「年上なのに?」 「つがいだよ?」 「怒らない?」  たまらない、と言うようにエースは吹き出して笑った。 「そんなことを心配してたのかよ?」 「ごめん。俺にとって、エースさんは初めて会う兄さんなんだ。本当に、ごめん……」 「謝らなくていい。オレも昨日は強引だったから」 「ああでもしないと俺はエースさんを兄さんだとは分からなかったよ」 「いいんだ、本当に。一緒に居られるだけでも、オレはレイドの匂いがあると安心できる。利己的な理由ですまないけれど、レイドがどんなにオレを嫌っても、オレはレイドについていく。ごめんね」 「嫌いじゃないよ。ただ、その……まだわからない」 「そうらしいね」 「ごめん」 「謝らなくていいって、本当に」 「でも」 「オレは今のレイドに会えて、本当に嬉しいから」  ニコッと笑うと、残念なことに軽薄そうな笑みになる。  幼い頃に俺と番契約をしたんだから、俺に不誠実なことはできない。理性でそれは分かっている。でも俺の感覚は獣種じゃなく人種だから、エースの軽い笑みがあたりの女の子に受けそうだと思ってしまい、なんだか素直になれなかった。  道行く女が気にしそうな男に思えて、つまりそれは、俺はエースの見た目がすごく好みだからそう思って嫌っている。  いやだ、こんな事考えたくない。 「ごめん、エースさん。一人の時間が欲しい」 「いいよ。オレもちょっと一人で探検に行きたかったし」 「迷子になったら人に聞いてみて。村の獣種顧問官、ローラシウスでわかるから」 「わかった。じゃあ、行ってきます」 「行ってらっしゃい」  俺が送り出すと、エースはものすごく嬉しそうな顔を見せて、さっと外に出て行った。 「はぁ……」  溜息が出る。  これからエースと一緒にこの家に暮らすことが、気が重い。俺の意識していなかった俺、狼種としての俺のこと。  これからどうやって人種のふりをして獣種三級顧問官としてやっていけばいいのか。いや、その前にエースの俺にかける期待が重い。俺は男相手の番のふりなんかできない。男相手にキスしたのは昨日が初めてだ、それもあんな背の高い騎士と。 「おや、レイド。玄関先でどうしたの」 「ハーモンドさん。今日のお昼は?」 「トマトと野菜の煮ものとパンで。ほかに温めたミルクがつきますよ」 「そうか。アディシアさんは騎士だから栄養のあるものがいいんじゃないか?」 「レイドが食べたいだけじゃなく?」 「俺はいいよ、食欲がない。アディシアさんにミートパイでもつけてあげて」  部屋に戻りながら、足取りが重かった。  パンツとトラウザーズに尻尾の穴を開けなきゃいけない。お尻が寒いんじゃないか。いたずらされそうで恐い。このままでだって平気なのに、何で人化を解かなくちゃいけないんだろう。  俺は人化を解くのが恐い。それにエースとキスをしないと人化が解かれてしまうのも恐い。軽薄なのは俺の勘違いだったけれど、俺がキスを拒否したら人化の術を解いてしまうのかも。それを思うと、落ち着いていられない。  なんでこんなことになったんだろう。  そのことで気が塞いで仕方なかった。エースがいない間は深呼吸できる、ほっと溜息をついて部屋の窓を開け放して風を入れ、椅子に座り、顧問官の資料のまだ読んでいない所を読み始めると、気持ちがそちらに逸れて楽だった。  そろそろ戻って来るだろうと思っていた昼食時、エースは戻って来なかった。 「アディシアさん、どうしたんでしょうね?」 「わからない。でも、つまめる軽食は作っておいてくれる?」 「もちろん、いいですよ」  何の気なしに、ハーモンドさんが新しくお茶を注いでくれる。 「初めてのつがいはどうです?」  うっと息が止まった。義父さんは、ハーモンドさんに話していたんだ。 「……よくわからない。つがいがいるなんて、知らなかったから。てっきりずっと昔に死んだんだと思ってたから」 「死んだなんて、薄情なことを」 「俺の勘違いだったから反省してるよ。アディシアさんは笑ってた」 「笑ってればいいなんて思ってるんじゃないでしょうね?そういうのは後に残るから、ちゃんと謝った方がいいですよ」 「うん」 「あの人はレイドの為に立派な騎士になったんでしょう?」 「……そうかな」 「違いますか?」  そう聞かれると、言葉に詰まってしまう。俺が何も知らなかった頃からずっと俺のためを思って、あんな背の高い騎士になった。女子にもてそうな軽薄な笑みを思い浮かべると胸がひどく痛んで、気にしないようにしようと野菜の煮付けを口に入れた。 「アディシアさん、どこに行ったんでしょう?」 「さあ。朝一緒に散歩して、その後で村を探検するって言って出て行ったから。迷子かな」 「大丈夫でしょうか」 「騎士だもの、大丈夫だよ」

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