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第10話

 この日の夕食前にエースは戻って来た。  俺はビールでほんのり酔ってラジオを聞いていたのを消して、慌ただしく上着を脱いで居間の椅子の背にかけた彼を見た。  俺の前にある椅子に座って、溜息をついた。 「食べたらまた行かなくちゃならない」 「フィッツさんの山の中に?」 「そう。多分ね、六割くらいの確率がある」  確率なんて。なんのことだか分からないのに、随分と熱中しているようだった。  あのフィッツさんの所に、騎士が夢中になるようなものがある? 「何のことだか分からないけれど、それって当たるの?」 「当たらない方が本当はいいけれど、俺の心配が当たっていたなら、今夜は行かないと……そうだ、レイドもついてきて」 「俺も?」 「そうだな、夕飯の残り物を少し弁当に詰めていくといいと思う」 「フィッツさんにあげるの?」 「まさか。彼は食べない」  さっぱり意味が分からなかった。けれど、必要だと言うなら持って行こう。俺は弁当に使っていた容器を取り出して中に晩飯を少し詰め、小さなバスケットに入れて上着の袖を通した。  家を空けるから、鍵をかけて出かける。 「フィッツさんの所に何があるの?」 「俺の心配が空振りであることを祈るよ、何もなかったら笑い話で済む」 「だから、何が?」 「今は黙ってついて来て欲しい」 「いいけれど。何があるの?」 「フィッツさんは気付いていない。本当ならあの人が助けられたらよかったんだけどな」 「助ける?人助けなの?」 「オレの考えが当たっていたらね」 「なんだそれ。ちゃんと教えろよ」 「あとで」  エースの足取りは早くて、俺はついて行くのに少し小走りになるほどだった。そしてフィッツさんの家に行き、中には入らずに裏手に回った。裏は山で、これから暗くなっていく。流石に山の中には入らないだろう。  俺は少し気後れしていた、俺の目の前でトラバサミに油を引くフィッツさんは、けっこう恐い存在だったからだ。 「フィッツさん」 「あんた、また来たのか。例の害獣が、どうしたって?」 「食べ物を持ってきたんです。多分、空腹だろうと思って」 「どうせ野狐だろう」 「さあ、まだ分かりません」 「俺は銃の準備をする。あんたは好きにやってくれ」 「ええ。少し、裏手の部屋を借ります」 「ああ」  驚いた。あのフィッツさんが、普通にエースと会話している。エースは俺を見てウインクし、俺と一緒に裏手の部屋に向かった。 「彼、どうしてエースと?」 「酒を一本送った」 「それだけ?」 「オレが騎士団に入ってるのを一目で見抜いた」 「へえ……」 「さて。捕まるかな」  エースは裏庭に続く戸口を開け放し、良く見えるテラスに皿を置き、皿にはサンドイッチが置いてあった。  そして部屋の中の明かりを消した。 「レイド。何も言わずに静かにして欲しい」  ものすごく真剣な様子で言われ、この裏山から何かが来る?何を呼び寄せる気なんだろう。 「いいよ。危険はない?」 「ない」  それから俺達は黙り込んで、エースはじっと戸口の向こうのテラスに置いてあるサンドイッチを見ていた。ミルクまでおまけについている。一体何が?野のキツネでも呼び寄せているんだろうか。  暗い所に二人でじっとしていると、あの夜にキスしたことが思い出される。俺は体の芯の所がなんだかむず痒いような、キスでついた火がまだ燃え残っているような気がしていた。  キスで火が点くなんて、恋をうまく言っているだけだと思っていた。自分に火が点いてはじめてあの言葉が嘘を言っていなかったと知った。  俺が恋をしている?つい三日前に会ったばかりで、そんな安直なことってあるだろうか。たった三日でキスまでしたのはどうしてだろう。軽薄だから好きじゃないと思っていたのに、気付けば俺はエースを近付けている。  十二年間も待っていた男にキスをするのは危険じゃないだろうか? 「来た」 「えっ……」 「静かに」  エースが俺を抱きしめるようにして耳元で囁いて、すぐ離れた所の陰に潜み、じっと屈んで様子を見ている。すると、テラスの所で小さく犬の爪の当たるような音が聞こえた。  キツネ?それとも、狼か野犬か。  野犬なら群れると聞いていたけど、はぐれてきたのか?なぜ一匹のことをこんなに気にするんだろう。  仕方なく俺も椅子の陰に座ってサンドイッチの様子を見た。  小型の犬の影が見えたような気がするけれど、それだけだった。 「ねえエース、野犬は騎士団を呼べば……」  声を掛けた時、靴音高くエースがテラスに駆け出した。ぎゃうん、と吠え声がした。皿が割れ、エースは何かを押さえている。ぎゃんぎゃんと死にそうな声で吠えている、犬? 「野犬?こんな所に?」 「レイド、明かりをつけて」  言われた通りに明かりをつける。明るい室内に、テラスから犬を引っ張ってくるエースがいる。首にどこかで見たスカーフが括りつけられていて、そのスカーフを握っているのはエースだ。  吠えて、手を噛もうとしているのが危ない。 「レイド、おべんとう出して」 「ん?その犬にあげるの」 「そうだよ。しばらくまともなものを食べていないから、嬉しいだろう」 「犬の毒になるんじゃない?」 「早く」  バスケットから容器を出し、おべんとうを床に置く。犬の近くに置くと、すぐ分かったのか暴れるのをやめて、鼻がひくひくとこちらの匂いを嗅いでいるのが分かった。  エースが手を離すと、子犬は一目散におべんとうに鼻を突っ込んで、がつがつと食べ始めた。 「この子犬、なんで騎士団に任せなかったの」 「騎士団は人種が多い」 「それが?」 「人種には分からないんだよ。俺もこの手で掴まえて、人間の食べ物を見せて分かったけれど。この子は獣種だ」 「え?」 「狼種か、犬種の子供だ。耳と尻尾が普通の犬より大きいだろう?この子は迷ったか、親とはぐれたのかな……」 「獣種の子供なの?」 「ああ。獣化している」 「はぐれた子の話は聞いてないけれど……」 「どんな話を聞いた?」 「獣種の子供を集めている人たちがいるって。集めて、フリオト大陸に連れて行くって」 「そうか」 「でも何の関係があるんだ?」 「その集団から逸れたのかも知れないな……獣化して戻り方が分からないから、事情を聞けるのは当分先になりそうだ」 「どうして?戻せばいい、できるんだろ?」 「できない」 「なぜ?」 「この子が人化しても大丈夫だと思える環境にならないと、獣化は解けない」  メドウスリーは言うまでもなく安全な村だ。そうだと俺は思っていた。けれど見知らぬ子犬の彼には村は危険に満ちていた、ということだ。 「じゃあ、フィッツさんのサンドイッチを食べていたのはこの子ってこと?」 「そうだよ。なにか危険な目に遭ってここまで逃げて来たんだろう」  子犬はお弁当を隅々まで全部食べ尽くすと、今度はエースの足元に寄って行った。ふんふんとトラウザーズの裾の匂いを嗅いで、前足で弄る。くんくん切ない鳴き声がする。 「よしよし。人心地ついたみたいだな……」  そこへ、テラスから人がどかどかと入って来た。フィッツさんだ。 「なんだ?子犬か?」 「獣化した獣種の子ですよ」 「なに!?」 「獣種の子だから、人の作った食べ物だけ食べられた。フィッツさんのサンドイッチでこの子は生きて来られたんですよ」 「子供。子供だったのか?本当にそうか?」  まだ疑わしいと言うように、フィッツさんは子犬に屈みこんでじろじろと見た。子犬はエースの足の後ろに隠れようとして、鼻先と尻尾が隠れられていない。  そのふさふさの尻尾を指差してエースが説明した。 「この尻尾を見れば分かると思います。ふつうの犬や狼の尾はこんなに豊かな毛量じゃない。耳も大きくて立っているし、この子は獣種ですよ」  足の後ろに隠れていた所をエースに抱き上げられて、子犬は頭と尻尾を男二人に調べられている。その間ずっと観念したようにきゅんと声を上げている様子は、憐れなものだった。 「子供だったのか。俺はもう少しでトラバサミを仕掛ける所だった」 「死にますよ」 「あぶねえな。どこの子だ?」 「それはまだ分かりませんけれど……人攫いがいるって?」 「……俺は詳しい事は知らねえが。いるって噂は聞いている」  俺たちはお互いの顔を見合わせた。  子犬はエースの腕に抱かれ、そこが安全地帯だとでも言うようにぎゅっと丸まろうとしていた。

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