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第14話 暴走
「す……っ!」
月明かりの中に蹲るようにして倒れていた翠は、目を薄く開いたままだった。ただ、白いまつ毛の隙間からのぞいている真っ赤な目には、何が見えているのかが全くわからない。
もしゾーンアウトしているのなら、迂闊に話しかけたり触ったりすることは出来ない。そうでないにしろ、俺一人で判断できることがあまりに少なかった。
なぜ翠は一人なのか。コイツの近くに蒼がいないなんてことが、これまであっただろうか。それも、こんな状態の翠を一人で置いていくなんてことが……。
——とにかく、晴翔さんに連絡を入れなくては。
翠をベッドに運ぶにも、今俺が触れていいのかどうかも分からない状態だった。とにかく、センターに連絡を入れて誰かこちらに来てもらうしかない。
俺はスマホを取り出して、晴翔さんへと連絡を入れた。
『もしもし。田崎さん、こんな時間にどうしました?』
疲れた声の晴翔さんが、すぐに応答してくれた。今日はスタッフが潜入捜査中に爆発事故が起きて、数人のセンチネルが怪我をしていた。その対応に追われていたため、おそらく晴翔さんは朝から一度も休憩をとっていないだろう。
申し訳ないとは思ったのだが、こちらも緊急事態だ。遅くに申し訳ありませんと断りを入れ、要件を話し始めた。
『真っ白になってる……? アルビノみたいな感じ? いや、そんな話は聞いたことがないけれど……とにかく、そっちに向かうよ。見て判断することにする。それと、ほぼ間違いなく入院になるだろうから、蒼くんも呼んでおいてくれるかな』
晴翔さんにそう言われて、俺は答えに詰まった。もちろん、蒼のスマホも鳴らした。何度か鳴らしたのだ。それでも応答が無い。
「あの、実は蒼に連絡がつかないんです。翔平を呼んで探させますんで、その間……」
晴翔さんは一瞬気色ばんだ声を上げた。しかし、今重要なのは蒼について議論することではなく、翠の状態の確認だと判断したらしい。短く強く息を吐き出すと、すぐに気を取り直して俺に指示を与えていく。
『じゃあ、兄さんに連絡して海斗さんに探してもらうよ。翔平よりも海斗さんの方がランクは上なんだ。しかも海斗さんは嗅覚優位だから、人探しならそっちの方がいいだろう?』
「そうなんですね。じゃあ、よろしくお願いします。センターに蒼の持ち物を何か持っていきます。海斗さんにもセンターに来てもらってください」
『わかった。そう伝えるよ』
そう言って、晴翔さんは通話を終えた。
翠は、よくセンチネルのことを警察犬に例える。基本的に人を探す時に匂いを嗅ぐことが多いからだ。捜索対象者の持ち物の匂いを嗅いで、その人物を探すことが多い。
「日常的に使うもので、匂いが残りやすいもの……」
俺は月明かりを頼りに、部屋の中を見渡した。翠がいる以上、ライトをつけて目を痛めてはいけない。話が出来る状態でない限りは、勝手な行動は控えた方がいい。
ただ、月明かりで見えるのは、自分を中心として半径二メートル以内といったところだった。もう少し下の階だったら、他の建物の灯りでもっと見やすいのかもしれないが、ここはペントハウスなので、それがあまり入ってこない。
青白い光の中に見えるものを、力の限り目を細めて探していった。
すると、ベッドサイドのテーブルに、きらりと光るものが目に入った。それは先ほどのピアスとは違い、綺麗な形状を保っていた。そのため、それがなんであるかがすぐにわかり、それがそこにあることがどれほど大きな意味を持つのかを知ってしまった。
「どうしてこれを置いていったんだ……」
その月明かりを湛えた滑らかな曲線を描くものは、二人の結婚指輪だった。
「本当に亀裂が入ったのか? ただの喧嘩じゃないのか? 指輪を置いていくほどのことが起きたのか?」
俺はその指輪を見つめて、呆然とするしかなかった。
「お前たちは、そんなものだったか?」
◇◆◇
「田崎くん」
開けたままにしてあったドアから、晴翔さんとスタッフが入ってきた。足音を極力立てないようにして、それでも急いでこちらへとやってきた。
「それ……驚いた。本当に真っ白じゃないか」
窓辺に丸くなっている翠を見て、晴翔さんは目が落ちそうなほどに驚いている。翠の元へと近づいてくると、血の出ている部分を確認し、全身状態を確認し始めた。
「この血は、ピアスを力任せに取った時に出来た傷から出たものだね。結構出たみたいだけど、今は止まってる。ただ……色が気になるな。赤というには、やや薄い。白っぽいというか……詳しいことは検査しないと分からないけれど。能力的なこと以外で言うなら、動かしても問題はなさそうだから、予定通りストレッチャーに乗せてセンターまで運ぼう」
晴翔さんがそう言うと、ついて来たスタッフが二人、一人ずつ頭側と足側に素早くまわった。そして、俺と晴翔さんはそれぞれ左右につき、四人でストレッチャーに翠を引き上げた。
そして、体を固定して部屋を出ようとしたタイミングで、ふと翠が口を開いているのが目に入った。
「翠!? 気がついたのか? お前どうして……」
「……蒼か? 帰ってきてくれたのか?」
俺が話しかけているのに、翠は俺のスーツの袖を掴みながら、蒼の名を呼んでいる。うなされているとか、寝ぼけているとかそういった類のものではなく、俺が誰だかわかっていないといった具合の問いかけ方だった。
断定しているのではなく、そうであったらいいなという希望の含まれた声だった。その声に悲痛なものが含まれていたからか、俺は込み上げるものがあって、絞り出す声が僅かに震えてしまった。
「何言ってるんだ。俺だよ。田崎だ」
翠は目を細めて首を捻っていた。俺の声が聞こえてはいるようだが、いまいち聞き取りにくそうな様子で、必死に耳をそば立てているようなそぶりをする。
「……田崎? え、ああ、そう言われればそうかもしれない……でも、匂いが……」
「ああ、今手元に蒼の指輪があるからかもしれないな。でも、匂いの嗅ぎ分けなんてお前にとっては……」
「指輪?」
翠はその言葉に強く反応した。
「指輪があるのに、蒼はいないのか?」
よく見ると、翠は俺と話をしているにも関わらず、どこを見ているか分からない目をしていて、俺の声もどこから聞こえているかがわかっていないようだった。
ずっとキョロキョロと忙しなく目を動かしていて、俺の存在を探しているように見える。
「お前……もしかして、ほとんど見えてないし聞こえてないんじゃないのか?」
翠は、暗闇に閉じ込められた子供のように、忙しなく首を動かしていた。それでも音は聞こえているようで、その音を追いかけてそちらに目を向けようとしているようだった。
ストレッチャーの横を歩いていた晴翔さんが、翠の耳元でフィンガースナップをする。パチンと小気味良い音が鳴り響いたのだが、翠は全く無反応だった。
「……翠?」
それは、驚くべきスピードだった。
たった今まで普通に話していた翠は、体から魂を抜かれるように段々と動かなくなっていった。まるでゆっくりと魂が抜けていくように、すうっと意識が飛んだ。
ガクンと体が揺れ、だらりと垂れた手が、ストレッチャーをはみ出している。そのまま目を閉じて動かなくなってしまった。
「翠っ!」
翠と出会って、十年。初めて、こんなに近くで大声を上げた。普段なら殴られそうな大きさの声で叫んだにも関わらず、目の前の翠は、目を閉じたまま、微動だにしなかった。
「……晴翔さん! 翠が!」
「……急げ! 今なら多少手荒に扱っても大丈夫なはずだ! 全速力で処置室へ行け!」
そう言われ、スピードを上げようとした瞬間、「晴翔!」とセンターの玄関の方から澪斗さんが大声をあげて走ってきた。隣には海斗さんもいる。その手には、見覚えのあるシリンジが握られていた。
「菊神さんに訊いてみたんだ。翠くんの状況を説明して、俺たちの考えを話したら、それならこれがいいだろうって。菊神さんは在庫を手に入れてくるからって出かけた。これ、知ってるだろう?」
その手に握られていたのは、イプシロンのリキッドだった。イプシロンは、能力者であることを望まない人が接種する経口薬として生まれた。そしてこのリキッドはその濃縮タイプのもので、一本で一般的な能力者ならその力をほぼ失ってしまうような強い薬だ。
これはセンター長であった菊神さんの遺伝子を元に作られている。二年前、違法に製造されていたものが永心議員の息子である和人の能力を奪ったとあって、今やミュートでさえもその存在を知るほどの有名な薬となっている。
「そのアルビノ化は、おそらくプラチナ・ブラッドの暴走だ。イプシロンで抑えるのが正しい対処法だろうってことになったんだ」
澪斗さんは、そのシリンジを俺に手渡した。俺はそれを見つめながら、僅かながらに違和感を感じていた。
——能力暴走なのに、聞こえなくなるのか? 見えなくなるのか? どういうことだ?
「苦しんでるんだよ、きっと」
海斗さんがポツリとこぼした。その目は悲しみに満ちていて、胸が痛むのかシャツを両手で握りしめていた。
「俺の目には、血流が上がっているのが見える。血圧も上がってる。ただ、その血の色がだんだん白くなっていってるんだ。だから傍目には分からない。顔色が変わらないからな。五感を司る神経は限界まで働いている。でも、それは本人かボンディングしたガイドじゃないと分からない。翠がレベルの低いセンチネルだったら、もっとわかりやすかったとは思う。これは、全体的に能力と反応がマスクされた状態なんだ。高レベルセンチネルにしか起きない反応。それがプラチナブラッドの暴走なんだよ。そのままだと、翠自身が自覚しないまま神経が焼き切れてしまう。だから、一刻も早くイプシロンの投与が必要なんだ」
「科学じゃ緊急時には対処出来ないタイプの問題ですね……」
俺はミュートだ。晴翔さんはガイドだ。澪斗さんもそうだ。この場で、センチネルは海斗さんしかいない。死線を潜り抜けてきたセンチネルである彼の言うことを聞くべきなのだろう。
ただ、今のところ俺は海斗さんの人となりをほぼ知らない。彼にしか分からない判断に、大切な友人の命を任せなくてはならない。それは正直、恐ろしい。
「田崎くん、君はVDSの副社長だ。センチネルの判断は、積み上げられた状況証拠よりも重いと言うことを伝えていく立場にあるだろう? それに、彼は翠くんの父親だよ。義理とはいえ、大切に思ってる。翠くんをを苦しめるようなことはしないよ。そして、君は僕を信じてくれ。僕は海斗さんとボンディングしてるんだ。彼が嘘をつけばわかる。間違いなく、本当のことしか言ってないよ」
澪斗さんは俺の目をじっと見つめて、僅かに顎を引いた。その目が力強く伝えてくる。
『大丈夫だよ』
それは、信じるしかなかった。長く翠を支えてきたのは、蒼と永心の家だ。その家長の言うことを、信じないわけにはいかない。
「そう……ですね。この仕事をしているのに、上位センチネルの言うことを信じられないなんて、いけません。それに、澪斗さんの言うことは信じられます。晴翔さん、それ、翠に打ってあげてください。お願いしていいですか?」
晴翔さんは、イプシロンリキッドの入ったシリンジをつかむと、無言でストレッチャーを押して走り始めた。処置室のドアが見え、そのドア付近に和人が立っているのが見えた。
「晴翔兄さん、竜胆さん、彩女さんからの伝言です。それを打てば落ち着くはずだ。早く打ってやれ。ただし、一度だけだとのことでした!」
ストレッチャーと共に室内へと滑り込んだ晴翔さんは、「了解!」と叫ぶと、翠の臍付近にそれを思い切り打ち込んだ。
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