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第15話 消えた理由

◇◆◇  バース研究センターに入院して三日が経った。外はしとしとと雨が降り、湿度が高いがやや肌寒いと聞いている。俺は、どの刺激がどう影響を及ぼすのかが全くわからない状態のため、ずっと快適な環境下で監視されている。  初日の不調は、生まれて初めて経験した。耳に残る傷跡が、ピアスを引きちぎった跡だと聞いてゾッとした。そうしたこと自体を全く覚えていないのだ。  電気もつけず、月明かりの中で窓辺にシーツに包まって倒れていたと聞いて、ふと蒼のことを思い出した。 ——俺、蒼に捨てられたのかな……。  俺が倒れてから、蒼は会いに来ていないらしい。倒れる前に最後に話した時、蒼は俺が触るのを嫌がった。手を振り解かれて、ショックを受けた俺の顔を見にも関わらず、そのまま家を飛び出していった。  インフィニティと俺に血の繋がりがあるのだとしたら、俺と蒼の間の繋がりの、大事な部分が無くなったことになる。俺たちにはお互いしかいないというのが、一番強い繋がりだった。  でも、俺と永心家に繋がりがあったとしても、俺にはそれはどうでもいいことだ。インフィニティはもういないし、父にも母にももう会えないのだから。  父には、もしかしたら会えるかもしれない。でも、もう三十年近く行方不明のままだというんだ。生きている可能性は、限りなくゼロに近いだろう。  大体、一歳になる前から会っていない人を、蒼より大切に思うことなんてない。言い方は悪いかもしれないが、いてもいなくても俺は困らない。  でも、蒼がいないと俺は困る。手を振り解かれた時、十年以上感じていなかった「絶望」というものを、久しぶりに味わった。体の中から自分が抜け落ちていくような、果てしない絶望。  あれほどの思いをしたのは、生まれて初めてだった。だから、どうしても自力で回復することが出来なかった。イプシロンのリキッドを投与してもらえなかったとしたら、俺はあの時死んでいただろう。 「世界最高峰のセンチネルがこれじゃあな……」  落ち着いてからは経口薬を飲むようにしてもらった。それからは、穏やかに回復していっている。  まだアルビノの特徴的な赤目は残っているものの、髪や肌は白銀血値が異常だった時の真っ白な状態ではなく、少しずつ元に戻りつつあった。  五感はミュートの日常生活と変わらないくらいには回復したが、センチネルとしては最低ランクにも属せないほどに能力は落ちていた。当然仕事に出ることは出来ない。  このままの状態が続くようなら、引退することも考えなくてはならないかもしれないらしい。ただし、晴翔さんもプラチナ・ブラッドのことは噂程度にしか知識がなく、今後どうなるかは全くわからないと言っていた。 「センチネルではなくなって、愛する人も失って、俺はこれから何のために生きていくんだろうな……」  目が覚めてからは、経験したことのないぼやけた視界しか見れない目と、聞き取りも聞き分けもしづらい耳や、香りのわからなくなった鼻と、触れたいものに触る事が出来ない手と共に、ひたすら絶望の淵に立っていた。  その時も、ただ目からこぼれ落ちる涙をそのままに、シーツの上に視線を落としていた。廊下を歩く二人の男の声と、紙袋がガサガサなる音が聞こえたのは、ノックされる直前だった。  軽く乾いた音が、軽快に来訪を教えてくれても、俺は反応することが出来ずにいた。黙っていると、ガーっと勢いよくスライドドアを開け、翔平が飛び込んできた。 「翠さん! おはようございます! あーもう、また泣いてる。ほら、拭きますよ。ね、朝メシ食べました? サラスヴァティのケイさんがバゲットサンド作ってくれたんです。甘いカフェラテ一緒に入れてもらったんで、俺たちと食べませんか?」  翔平は、いつも高レベルセンチネルとは思えないほどの、大きくて明るい声で話す。俺はその声を知っている。それなのに、今聞こえる声は、いつもの半分くらいの音量で、音質だった。  あの綺麗な顔も、うっすらとモヤがかかったようにしか見えない。俺には、それが自分の無能さを物語っているようで、悲しくて仕方がなかった。 「翠さん……大丈夫ですよ。ほら、今ケア受けられないから不安になっちゃうだけだから。鉄平、ハグしてあげてよ。レベル下がってるから鉄平がハグしても大丈夫でしょ?」  翔平が、いつの間にか後ろに立っていた鉄平に呼びかける。でも、鉄平はずっと被りを振ってそれを断っていた。俺がどれだけ鈍くなったとしても、それが本心でないのはわかる。  苦しそうな顔をして、本当は俺を助けたいと思っているのに、それを断る苦痛を受け入れていた。 「何でだよ。蒼さんが行方不明なんだから、助けてあげてもいいだろ? お前だって翠さんのこと慕ってるんだからさ……」  鉄平は口をぎゅっと引き結んで、何も言わない。元々口数が少なく、その口を開けばデリカシーのない発言を繰り返すので、こういう時はあまり喋りたがらない。  俺もそれがわかっているから、話さなくていいと言ってあげたかった。それでも、体は言うことを聞かず、ただ俯くことしかできない。 「もう、わかったよ。本当に蒼さんファン過ぎてダメだな、ガイドのみんなは。センチネルを守ってくれなきゃ、その特殊能力の意味なんて無いだろうっての」  翔平はそう言って「ねえ、翠さんもそう思うでしょ?」と言った。その顔が全く笑っていないことが、俺には少しだけ気になった。 「うーっす、翠、起きてるか? ……っと、お前ら何してんの? もうすぐ集合だろ?」  翔平が鉄平に睨みを利かせているところへ、田崎がやって来た。毎日ミーティング前に俺のところへ寄り、緊急の案件以外はここで仕事をしている。  田崎は俺のそばから蒼がいなくなったことに、誰よりも危機感を覚えている。それは、もしかしたら俺より強く感じているかもしれない。少しも俺のそばから監視の目を緩めようとしないのだ。 「あ、今から行きます。これ、翠さんに朝食を持ってきたんです。まだ食べてもらってないんで、田崎さんが食べさせてやってください。ケイさんがちゃんと一口サイズにカットしてくれてるんで。じゃあ、よろしくお願いしますね」  時計を確認して、一息に話し切ったと同時に、二人は現場へと向かって行った。病室には、俺と田崎といい香りのする紙袋が残された。 「いい後輩を持ったなあ、翠。あいつらの家、サラスヴァティとここじゃ方向が合わないだろ? わざわざ行ってきてくれたんだな。ほら、とりあえず飲め。アイスカフェラテ、黒糖入りだってさ」 「おう、サンキュー」  食欲は無いけれど、何かを胃に入れておかないと本当に動けなくなってしまう。バゲットサンドの包みを見て、ケイさんの優しい笑顔を思い出した。 『辛いことがあったら、いつでも来なさい。何の能力も持ち合わせて無いけど、愚痴聞いて笑わせてやるだけなら得意だから』  いつもそう言ってくれていた。そして、辛ければ辛い時ほど、しっかり食べなさいと言われていた。それを思い出して、思わず顔が綻んだ。 「何だよ、そんな美味いのか? 俺にも一つくれ」 「あっ! てめ、病人の食いもんを取るなよ」 「お前、病人だったっけ?」  田崎は、俺の手から奪い取ったバゲットサンドを口に放り込むと、「うわっ、うんめえな、コレ」と目を丸くした。そして、手にしていたブラックコーヒーを一口、ゴクリと飲む。  その時立ち上がった香りに、蒼の姿が重なって見えた。蒼はブラックしか飲まない。でも、いつも俺には甘いカフェオレを淹れてくれていた。ベッドの上、二つのコーヒーの香り、それだけで思い出す愛しい笑顔。  でも、ここに蒼の香りは無い。温度も無い。それが寂しくて、苦しくて、急激に涙が溢れてきた。 「うっ……、コレなら、病気の方がマシかも……な」  寂しくて、寂しくて、もう頭が壊れそうだった。どうして他の能力は無くなってしまったのに、恋しいと思う気持ちは増えていくんだろう。 『俺がそばにいてやるからな』  そう言ってくれたのに。 『俺たちは、二人で一つだ』  そう誓ったのに。 『俺の最後は、お前がいい』  壊れる時は、そばにいてくれるって約束したのに。あんなに必死に、俺のことを助けたくせに。 『はい、ぎゅーっ!』  お前が抱きしめてくれたから、今まで生きてこられたのに。 「俺、もう壊れてしまいたい……」  目の前にぶら下がるプラチナ色の髪を掴んで、ただ泣き崩れることしか出来ないなら、もう俺なんて消えてしまえばいい。本気でそう思っていた。  田崎は黙って、俺の背中を摩っていた。優しく、優しく摩っていた。でも、手のひらから少しだけ伝わる感情があった。俺はなぜかそれが理解できた。  涙でびしょ濡れの顔を上げ、田崎の顔を覗き見た。いつも冷静で仕事の早い自慢の友人は、悲しみと怒りで顔を歪めていた。 「……なんで怒ってるんだ、お前」 「お前、本気で蒼がお前を置いて行ったと思ってるのか?」  声は怒気を孕んでいた。それでも、ずっと手は優しい。優しく摩りながら、ずっと冷静に怒っている。 「どう言う意味だ? 指輪を置いて出て行ったまま、帰ってないんだろう? それは俺といるのが嫌になった……」 「それが理由で仕事を何日もほったらかすようなヤツだったか? お前が見て来た果貫蒼はそんなヤツだったか?」  そう言われてハッとした。確かに、そう言われればそうだ。俺のことが嫌いだとしても、蒼は必ず仕事には出るだろう。俺たちにとって、仕事とは生きる意味そのものだ。能力者も非能力者も、共に幸せになれる社会を目指すために、毎日必死に働いている。  わざわざ会社を起こして、民間でできることを追求して来た。たとえ俺との仲が壊れたとしても、そんなことでこの仕事を手放すなんて考えられない。  俺が嫌いになったのなら、別に暮らせばいいだけの話だ。仕事だって、二人の現場を別にして、ペアを解消すればいい。  ボンディングは完全に無効には出来ないから、マメンツとクラヴィーアを使っていかないといけないだろうけれど、物理的な距離を取れば、今ならどうにかなるはずだ。 「でも、蒼は俺の手を振り解いて行ったんだぞ。弾き飛ばされたんだ。あんなの初めてだった……」 「俺だってその可能性を少しは考えたよ。でも、何度考えても、蒼がお前を捨てるなんて、どうしても考えられない。それで、仕事の記録を見直した。お前が倒れた日、昼間に爆発事故があったんだ。その捜索に行ったセンチネルたちの回復が遅くて、蒼はヘルプに行ってた。その出動時間が、お前が倒れた時間の少し前だったんだ。あいつがお前の手を振り解いたのは、現場へ行くために急いでたからなんだよ」  田崎は俺の手を握りしめ、「出かける前に揉めてたとしても、帰って来てから謝るつもりだったんだろう」と言ってくれた。俺が勝手に勘違いしているだけだと、そう言ってくれているようだった。 「俺、捨てられたんじゃないのか?」 「そんなわけないだろう! そんなわけ……でも、これをお前に知らせるのも嫌だった」  田崎の手が震えていた。それは俺にも伝わってくる。蒼に捨てられてないとわかった安堵からか、わずかに感覚が戻るのがわかった。 「何だよ……何をそんなに怖がってるんだ、お前」  田崎は、口にしたら最後とばかりに言い淀んでいた。何度かきつく口を引き結び、涙を流した。 「何だよ! 早く言えよ! 何で泣いてんだよ!」  俺は田崎の手を握り返した。ぎゅっと力を入れ、お互いの指が真っ白になる程に力を入れた握りしめた。そこへ、コンコンとノックの音が響いた。 「晴翔さん」  入り口のドアの向こうに、晴翔さんが立っていた。押し黙ったままスライドドアを開けて中に入ってくる。緊張した面持ちで、俺と田崎のそばまでやってくると、田崎の背中にポンと手を乗せた。 「翠くん、蒼くんは爆発事故現場へセンチネルのケアに向かったんだ。その時案内役になっていたセンチネルが、かなりレベルが低かったようで、崩落を察知出来なくて……二人とも巻き込まれてしまったらしい」 「えっ……」  俺は何を言われているのか、全くわからなかった。 「崩落? じゃあ、今、蒼は……」  晴翔さんはため息つきながら、被りを振った。 「その現場での瓦礫の撤去は終わった。ただ、蒼くんは見つかってない。現場には、彼の匂いともう一人別の男性の残り香があったらしい。海斗さんがその匂いに覚えがあるらしくて、今探してくれてるよ」 「それ……つまり、蒼は爆発事故現場から拉致されたってことですか?」  晴翔さんは頷いた。俄かには信じられず、田崎の方へと視線を送る。田崎は、情けないほどに涙を流していた。 「俺はずっと蒼がお前を置いていくわけがないと思ってた。でも、プラチナ・ブラッドのことで蒼が傷付いたのは間違いないと思ったから、しばらく待つつもりでいたんだ。それがまさか……消えた原因が拉致だったなんて……俺の思い込みで対応が遅れた。すまなかった。これから全力で探す。今日はそれを伝えに来た。俺はこれから現場指揮を取るから、しばらく代わりにこいつらを置いていく」  田崎はそう言って、ドアの外に待機していた二人を中へと招き入れた。 「ハロー、翠さん。しばらく私たちが面倒見てあげるからねー」  そこには、金髪のロングヘアを靡かせたミチと、イヤイヤながら連れて来られたであろう、和人が立っていた。

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